歴史の授業では絶対に教えてくれない、“好色”の秀吉「もう一つの統一事業」

 

秀吉は史上稀に見る好色な男でした。男はみな好色と言ってもいいのですが、秀吉が並み外れた好色であったのは、側室を含め肉体関係を持った女性の数の多さだけではありません。えてしてプレイボーイはいかに自分がモテルかを自慢し、モテナイ男のことなど気にもかけないものですが、秀吉は違いました。

秀吉はモテナイ男にも好みの女性と楽しむことができる、しかも身分の上下を問わず悦楽を味わうことができる場を設けたのです。

すなわち遊郭です。

もちろん、秀吉以前にも遊女屋は存在しました。なにせ、遊女、売春婦は人類史上最古の職業といわれているくらいです。日本史上でも、「万葉集」に遊女が作った歌が載っています。従って、遊女屋自体は珍しくなかったのですが、秀吉が作った遊郭はそれまでにはない画期的なものでした。

日本史上初の遊郭は京都の二条柳町に作られました。柳町という名が示すように柳の原を切り開いて形成されたのです。柳町遊郭以前、遊女屋は京都のあちらこちらに点在しており、町を形成していたわけではありません。秀吉は町になるくらいの数の遊女屋を集めたのです。

遊女屋町である遊郭には大きな特徴がありました。入口には大門(おおもん)、遊郭内には並木が設けられ、遊女屋は格子窓が義務づけられたのです。

大門を潜れば別世界、浮世のうさを晴らすことができます。賑やかな音曲が流れ、並木通りの両側には遊女屋が軒を連ね、格子の隙間から遊女を鑑賞できる。男たちは自分好みの女性を物色し、束の間の快楽を貪るというわけです。

柳町遊郭は江戸時代になってから下京に移され、「島原遊郭」と呼ばれるようになりますが、秀吉が定めた、大門、並木、格子窓という三点セットは忠実に守られました。江戸の「吉原」大坂の「新町」をはじめ、全国の遊郭は島原遊郭をお手本にして作られていきます。ちなみに吉原の大門を、「だいもん」ではなく、「おおもん」と呼ぶのは島原に倣ってのことです。

遊郭は類希なる好色な天下人によって誕生したのでした。

豊臣秀吉は遊郭も統一したのです。

image by: Sarunyu L / Shutterstock.com

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