また、「斉読(一斉音読)」についても同じようなプラスの効果が期待できるという。「一斉に声を揃えて読む」ということの効能。これは、読むのが苦手な子どもにとって、大きな手助けとなる。理解や読み方があやふやであっても、斉読の中であれば、何とかついていける。読むことが苦手な子どもにとっての、補助輪のようなものである。
低学年に限らず、これらは上学年であっても、言葉が苦手な子どもたち全員に当てはまる可能性がある。つまり、音読は「負担」ではなく、むしろ「補助」としての機能面が強くあるといえる。
そう考えると、低学年においてよく「音読」の宿題が出ることにも合点がいく。「音読カード」を用いるかどうかの話ではなく、音読そのものに価値があるということである。それと同時に、宿題として出す側は「一人で音読」の実施が厳しい子どもへの配慮も必要となる。
ある程度上手く読めるのであれば、一人で読んでもいいのだが、理想は聞いてもらった方がよい。特に、読み方があやふやな低学年の時期はそうである。しかしながら、昨今の共働きの多い家庭環境の状況から言って、そこを求めるのは酷かもしれない。
そうなると、頼みの綱は、やはり教室での音読ということになる。つまりは「学力形成は、授業中で勝負」という至極当たり前の結論に至る。
教室の中で、いかに音読の機会を設けるか。また、いかに豊かな言葉に浸らせることができるか。この辺りが勝負の分かれ目である。音読の機会は、国語に限らないことである。算数だろうが社会科だろうが理科だろうが、事あるごとに音読を促す。また、手紙を配っても音読する。これだけで、教室に一日いれば、相当読むことになる。
また、豊かな言葉に浸らせるには、絵本や物語の読み聞かせに敵うものはない。読み聞かせを教室の当たり前にしていけば、確実に言語の力が変わってくる。
さらに、直接心を教育しようとするのは難しいが、子どもの言葉が変われば、行動も変わってくる。学習指導要領で定められた道徳教育の位置づけである「学校の教育活動全体を通じて行う」にも繋がる。
現在実践しているのは、毎朝の子ども同士の読み聞かせである。その日の担当の子どもが、全員の前で読み聞かせを行う。朝の時間では足りないので、国語の時間を使って実施している。
トータルするとかなりの時間を食うが、それだけの価値は十分にある。読む子どもは入念に準備をし、他の子どもたちは心待ちにして聞く。「聴く」の文字にある通り、目も耳も、心をも傾けて全力できくのである。
でも本当は誰よりも自分が読みたいので、時々時間をとって、教師による読み聞かせも行わせてもらう。子どもはこれも楽しみにしている。つまりは、学校生活全般を通して、言葉を好きになることに繋がる。
拙い実践かもしれないが、こんな些細なことで確実に効果は出る。言葉の力をつけるためにも道徳教育のためにも、音読と読み聞かせの実践は強くおすすめしたい。
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