前回の記事で、皇族でありながら朝敵となってしまった輪王寺宮能久法親王について紹介した『歴史時代作家 早見俊の無料メルマガ」』。今回は、時代小説の名手として知られる作家の早見俊さんが、その続編として彼の逆転人生について語っています。
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朝敵となったただ一人の皇族、北白川宮能久親王の逆転人生(後編)
輪王寺能久法親王は粘り強く交渉します。有栖川宮も参謀たちも取り合いませんでした。側で様子を見ていた覚王院は宮への不遜な態度に深い憤りを覚えました。事態を打開しようと輪王寺宮は朝廷への直接交渉を決意します。そこで、有栖川宮に朝廷に嘆願すると伝え駿府城を辞去しようとしました。有栖川宮は強く反対します。直ちに江戸に戻るよう高圧的に命じました。無理に京へ向かおいとしても官軍に阻まれます。やむなく宮は追い返されるようにして江戸に帰りました。
失意を胸に寛永寺に戻ると、情勢は緊迫の度を高めていました。寛永寺に慶喜を守ろうとする幕臣たちが集まり、彰義隊を結成していたのです。朝廷に恭順する慶喜の意思とは裏腹に官軍と一戦を交えるべしという強硬派が勢いを得ていたのです。
宮は危機感を抱きましたが、事態は思わぬ展開になります。交渉失敗と思っていた慶喜助命、徳川存続が和宮の嘆願によって朝廷の公家たちの心を動かし、慶喜助命の声が上がってきたのです。こうした公家たちの声を西郷も無視はできず厳しい条件付きで慶喜の命は助ける考えに傾きます。
そして西郷と勝の会談によって江戸城は無血開城、慶喜は寛永寺を出て実家である水戸家へ向かいます。
やれやれとほっと安堵したのも束の間、彰義隊は寛永寺に留まったまま、解散しようとしませんでした。彼らは慶喜に代わって輪王寺宮を守るという名目を立てたのです。やがて官軍が江戸にやって来ます。官軍は勝利者の驕りで江戸の町人に高圧的な態度で接し、反感を買いました。町奉行所は機能しなくなり、江戸の治安は乱れました。
彰義隊は江戸の治安を守る大儀で江戸市中を巡回します。巡回中、官軍の雑兵たちとしばしば衝突しました。官軍への反感から町人たちは彰義隊を応援します。そんな最中、輪王寺宮が京都へ戻るという噂が流れました。たちまち、寛永寺に留まってくださいという町人たちの嘆願書が届けられます。その数は膨大で一室の天井に届く程であったそうです。公方さま不在の江戸にあって民がすがる偶像は輪王寺宮になったのです。
江戸城に入った官軍は彰義隊の解散と輪王寺宮の寛永寺退去を要求しました。官軍から派遣された使者の応接に当たった覚王院は駿府城での官軍側の輪王寺宮に対する不遜な対応に憤っていましたので、宮は病だと言って取り次がず、官軍側の要求を握りつぶしたのでした。勢いを増した彰義隊は寛永寺に根を下ろし、官軍にとって大きな障害となります。江戸を完全に支配下に置かないことには奥羽鎮定を本格化できません。
こうして五月十五日、官軍は彰義隊討伐のため寛永寺攻撃にかかります。彰義隊は奮戦しましたが、最新式の銃とアームストロング砲などの火力によって制圧され、輪王寺宮は命からがら寛永寺を落ち延びました。江戸市中を逃れ、榎本武揚の艦隊で奥羽まで行きます。奥羽の地では奥羽の諸藩に越後長岡藩が加わり、奥羽越列藩同盟が結成されていました。列藩同盟は輪王寺宮を歓迎し、盟主に頂きます。宮も官軍の行いを幼少の天皇を利用した薩長の陰謀だと怒り、討伐の令旨を発しました。
こうして輪王寺宮は心ならずも朝敵の汚名を着ます。江戸の町と民を守りたいという慈愛の気持ちが、時代の嵐に流されて皇族でただ一人の朝敵となったのです。
明治維新後、賊徒の汚名を着たまま三年間実家伏見宮家で蟄居した末にようやく許されます。その間、実父伏見宮邦家親王との面談は叶いませんでした。寛永寺での慶喜の蟄居を遥かに上回る過酷な謹慎生活を宮は送りました。その間、覚王院は餓死します。官軍の取調べを受けた覚王院は自分の頑なな官軍使者への応対を悔い、輪王寺宮に迷惑が及ばないよう責任を一身に引き受け、出された食事に一切箸をつけずに餓死を選んだのでした。
苦闘の蟄居謹慎が明け、輪王寺宮はドイツに留学、陸軍軍人としての道を歩みます。
そして日清戦争、朝敵の汚名を注ぐべく宮は決意します。近衛師団長となった宮は日清戦争後、清国から割譲された台湾に遠征しました。台湾で起きた暴動を鎮圧するためです。後方の柳営にお留まりくださいという周囲の声に耳を貸さず、宮は陣頭に立って険しい山々、密林を進軍、暴動鎮圧を成し遂げました。しかし、奮戦の余りマラリアに罹り台湾の地で亡くなります。日本の人々は戦地で客死した古の英雄日本武尊になぞらえ、宮の死を悲しみました。
宮は国葬で葬られます。
朝敵となったただ一人の皇族、北白川宮能久親王の逆転人生の締めくくりは古の英雄を彷彿とさせるものでした。共に戦地で悲運の死を遂げたことに加え、父景行天皇から疎まれた日本武尊、朝敵となった親王という境遇ゆえかもしれません。日本武尊は父景行天皇の愛情を得んと、親王は朝敵であった自分を登用してくれた明治天皇への感謝の念で奮戦したのでした。
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