まさに「聞く力」を持っていたかつての自民党
菅氏が福島県田村市の避難所を訪ねたのは、東日本大震災と福島原発事故の発生から約1カ月が過ぎた2011年4月のこと。避難所訪問は初めてだった。菅氏は避難所で7人の住民と話をした後、一度は足早にその場を離れようとした。菅氏はこの後もう一つの避難所を訪問し、その日のうちに帰京してオーストラリアのギラード首相との会談を行う予定だった。
「後に日程があった」点では、今回の環境省のマイクオフ問題とも重なる点がある。だが、違いはこの後だ。「無視して行かれる気持ちって分かりますか」。被災した住民夫婦からこう声をかけられた菅氏は、その場で引き返すと夫婦に謝罪を繰り返した。「ごめんなさい、話聞かせてください。そんなつもりじゃなかったんです」
菅氏はその後、被災者の言葉に黙って耳を傾け続けた。「ひどく傷つきました」「(内閣の人たちを)みんなここに連れてきて生活してみてください」。次々に投げかけられる言葉を受け止めると、菅氏は最後に「長い避難生活で本当に大変だと思いますけど、子供さんのためにも全力を挙げてやりますんで」と声をかけた。続いて訪れた郡山市の避難所では、当初予定より時間をかけて多くの被災者に声をかけて回り、ギラード首相との会談は30分以上遅れた。
「もっと被災者の立場で全てのことを考えなければならないと痛感した」と記者団に語った菅氏は、2度目となる埼玉県加須市の避難所訪問では、5時間にわたって約1,200人のほとんどの住民と言葉を交わし、同行した上田清司知事(当時)を「菅首相の『ど根性』を見た」と驚かせている。
思えば、ミニ政党出身だった菅氏が「将来の首相候補」に名乗りを上げるきっかけとなったのは、厚相当時の1996年、薬害エイズ問題で国の責任を認め、被害者に謝罪したことだった。官僚を怒鳴りつける「イラ菅」という印象が残る菅氏だが、本当に政治が耳を傾けるべき存在に対しては、謙虚な姿勢で臨むことを貫いてきた、ということなのかもしれない。
ちなみに、原発事故は民主党政権で、自民党は野党だったが、薬害エイズ問題での謝罪は、自民党の橋本龍太郎政権で行われている。当時はまだ民主党が存在しておらず、菅氏は小政党「さきがけ」の一員として、自民、社会、さきがけの3党が連立した橋本政権の閣僚として、薬害エイズ問題に取り組んだ。
あの謝罪は菅氏個人が行ったことではない。それを「政権の姿勢」として受け止める橋本龍太郎首相の存在があったことも忘れてはならない。
当時は自民党にも、こうした謙虚な姿勢が残っていた。1993年の細川政権樹立で初めての野党転落を経験し、翌年の村山政権発足で政権に復帰したばかりだった自民党は、野党をはじめ党外のさまざまな声に耳を傾ける、まさに「聞く力」を持っていたと思う。
民主党政権の発足(2009年)で2度目の野党転落を経て政権に復帰した自民党からは、こうした姿勢がほぼ消えてしまった。国民の声をまともに聞かずに独善的な政策をぶち上げ、それが行き詰まると「国民の誤解」などと言って国民の側に責任を押しつけるような態度は、新型コロナウイルス感染症の対応でも、マイナンバーカードと健康保険証の一体化問題などでも、散々みられた姿だ。そんな態度をとっておきながら、堂々と「聞く力」を標榜して平気な顔をしていられる。それが現在の自民党だ。
かつての自民党にそれなりにみられた「ごく普通の政権運営ができる能力」を、筆者はもはやこの党に見いだすことはできない。









