べ、別に本なんて読まなくていいんだからね。なぜ読書をしてきた人間は「読書そのものを絶対視しない」のか?

 

■省略された言葉

もちろん、ここには省略されている言葉がたくさんあります。

たとえば、「他に充実した活動持っているならば、」という前提。読書という活動が数ある選択肢の一つでしかないならば、他の活動で満足した生活をしているならば、あえてやるものではないでしょう。しかし、そうでないならば、本を読むという活動の選択肢は十分にありえます。

また、「本を読まなければならないという義務感を持っているなら、」という前提。読書というのは、好奇心を刺激し、その人の心の窓を開けてくれる営みなわけですが、「なければならない義務感」は好奇心とはまったく逆の働きです。

正直、そんな状態で本を読んでも、読書への嫌気が増すだけでしょう。そんなことになるくらいなら、本なんて読まなくていい。そういう気持ちも隠れていそうです。

とは言え、一番大きく隠れているのが、アンビバレントな気持ちでしょう。

たしかに読書以外に行為にも価値を見出している自分もいる。しかし、そうした価値を見出すことができたのは、まさしく読書であった。この状況がもどかしさを生みます。

一方で、「やっぱり読書すごい!みんなもっと本を読むべき!」と言いたくなる気持ちがある。少なくとも、自分の人生経験を基調にして考えるなら、まさに読書こそが至上の価値だと思えてくる。

しかしながら、そのような読書を通して得てきたのは、「読書以外にも価値がある」という一つの事実だった。もちろん、そうした事実は一つの情報として得てきただけであって、自分の人生経験からによるビビッドな発見に比べれば少し奥行きは足りていない。だからといって、それを単純に否定してしまうのは読書という行為そのものの価値を否定してしまうのに等しい。

人が本を書き、書かれた本を人が読むという行為は、人を本の中に閉じ込めるためのものではないはずです。本という文化は、人を解放するためにある。一時的に本の中の世界というクローズド(かつ特殊な)世界に人を誘うことで、結果的に帰ってきた現実世界の色合いを変えてしまう。それが読書という営みでしょう。

だからこそ、読書という行為を絶対視したくない。自分の人生にとっては絶対的なものに感じられるのに、いや感じられるからこそ、そこから距離をとる姿勢を持ちたいと思う。

そういうアンビバレントさを持って出てくるのが、「本なんて別に読まなくていい」という言葉なのです。

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