東京・御茶ノ水駅近くの並木道で、10年以上も「知と文化の発信地」として親しまれているブックカフェ「エスパス・ビブリオ」。以前、MAG2NEWSでも取り上げた、蔵書1万冊を誇る素敵な空間が存続できなくなりました。多くの著名人、文化人やアーティストがイベントや展覧会を開催してきた文化スポット“最後の砦”で今何が起きたのでしょうか? 今回、フリー・エディター&ライターでジャーナリストの長浜淳之介さんが、アートや音楽などのカルチャーシーンに大きな影響を与え続けてきたブックカフェの「現在」を取材しました。
プロフィール:長浜淳之介(ながはま・じゅんのすけ)
兵庫県出身。同志社大学法学部卒業。業界紙記者、ビジネス雑誌編集者を経て、角川春樹事務所編集者より1997年にフリーとなる。ビジネス、IT、飲食、流通、歴史、街歩き、サブカルなど多彩な方面で、執筆、編集を行っている。共著に『図解ICタグビジネスのすべて』(日本能率協会マネジメントセンター)、『バカ売れ法則大全』(SBクリエイティブ、行列研究所名儀)など。
駿河台の「知と文化の拠点」は消えて行く
東京駅からJR中央線快速でわずか4分。御茶ノ水駅で降りて、5分ほど歩いた、とちの木通り沿いのビルの地下1階に、隠れ家のようなブックカフェが、「エスパス・ビブリオ(ESPACE BIBLIO)」だ。
周囲は神田駿河台の文教地区にあたり、男坂を挟んだ向かいと坂下には、明治大学の猿楽町校舎、フランス語を教える語学学校のアテネ・フランセも近い。同校が併設するアテネ・フランセ文化センターには映画好きな人々が集う。
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2018年までは、店の斜め前に、飯沢匡、久里洋二、志村ふくみ、石井竜也、菊池武雄、平野レミ、安井かずみ、鳥居ユキなど、数え切れないほどの文化人を輩出した文化学院もあった。
御茶ノ水、駿河台、神保町界隈には、明治大学、中央大学、日本大学、専修大学、共立女子大学、東京医科歯科大学、順天堂大学といった多くの大学が集まり、小学館、岩波書店、岩波ホール、集英社など、日本を代表する出版社、さらに日本最大の古書店街には、古書店のみならず三省堂、東京堂書店などの大型書店や老舗喫茶店、老舗洋食店、江戸川乱歩が通った老舗天麩羅屋なども軒を連ねる。川端康成などの文豪が愛した山の上ホテルや、夏目漱石が通った金華小学校も隣同士で存在している。
まさに、「日本のカルチエ・ラタン」と呼ばれてきた文化、芸術、学問の拠点である。
最近はその雰囲気が薄まってきてはいるが、「エスパス・ビブリオ」はオープンしてから千駄ヶ谷での6年間と駿河台での11年間、愚直なまでに「知と文化の発信基地」のコンセプトを守り続けている。
「エスパス・ビブリオ」のアカデミックな空気感を形づくっているのは、言うまでもなく、本棚にびっしりと並ぶ圧巻の書物だ。
これらは全て、齋藤氏が営んできたデザイン事務所の蔵書。中には絶版になったものや初版本も数多く、今では入手困難な土門拳の「ナガサキ」や篠山紀信の「パリ」、木村伊兵衛の「パリ」、大石芳野の「霧と夜は今」、鬼海弘雄の「ペルソナ最終章」そして、ヘルムートニュートンの超大型写真集、重さ30キロの「SUMO」など、お宝写真集も普通に並んでいる。
他にも店内には、アベドン、アービング・ペン、ヘルムート・ニュートン、ジャンルーシーフ、アニーリーボビッツなど、国内外の著名写真家の写真集をはじめ、芸術、映画、建築、料理、酒、浮世絵、茶道、花道、歌舞伎などの日本文化などなど、約1万冊の多彩な分野の蔵書が壁一面を埋め尽くし、飲食をしながら自由に読むことができる。
また、これまで政治家、作家、写真家、アーティストなどの著名人による500回を超えるトークショー、コンサート、写真展などのイベントを開催してきたギャラリーも併設されている。
ところが、その「エスパス・ビブリオ」は、現オーナーと今後の賃貸条件について話し合いを重ね、円満解決して閉店することになった。
「都会のオアシス」は、文化の発信地でもあった
入り口にある蔦が絡んだステンドグラスの街灯看板を横目に階段を降り、地下の店内に入ると、正面に緑豊かな庭がある。まるで高原の別荘地にある老舗ホテルのラウンジのような、マイナスイオンあふれた空間が出現する。
ここに流れる静謐な空気感は、庭に広がる竹林と、溢れるような木々の緑を縫って降り注ぐやわらかな木洩れ陽によってもたらされているのだとすぐに気づいた。
東京の都心、千代田区にありながら、別世界の緑が深い庭を整備してきたのは、店主でグラフィックデザイナー、写真家、編集者でもある齋藤芳弘氏だ。
テラスでお茶を飲んでいると、小鳥たちのさえずりが聞こえてくるだけではなく、すぐそばまで飛んできて水浴びをしてる。自慢の深煎り珈琲は、東京で一番おいしいと言われている伝説の自家焙煎珈琲店カフェドワゾーから選りすぐりの豆を仕入れている。濃厚で香ばしいバスクチーズケーキも、林檎丸一個を贅沢に使用したタルトタタンも店内でシェフが焼いている。4種類のランチも注文を聞いてから作る手間と時間を惜しまない営業スタイルだ。
庭には、元首相で現在は陶芸をはじめ幅広く芸術活動を行う、細川護熙氏作の陶仏や狛犬像も置かれて自然とアートが融合した唯一無二の小さな庭がある。
訪問した日は、30℃を超える暑さだったので、冷房の効いた店内でアイスコーヒーと、バスクチーズケーキをいただいた。シェフ特製のバスクチーズケーキは、表面の焼き目が香ばしく、濃厚なチーズのしっとりとしたやわらかさとのコントラストが楽しい、スペインの美食の街、サン・セバスティアンばりのケーキが提供される。空間にも食事にも、齋藤氏の匠の精神が感じられる。
ランチは、ニース風サラダ、デミグラハンバーグ、チキンマサラカレー、月替わり手打ちの生パスタが提供される。ニース風サラダは、15種類の多種多様な野菜にゆで卵、マッシュルーム、シーチキン、オイルサーディンなどのタンパク質が入った、主菜となるパワーサラダ。フランスパンが付く。暑い時期にぴったりで、デトックスに役立ちそうなメニューだ。
この辺りには座ってゆっくりと食事ができる店が少なく、アテネ・フランセの学生やOLにとって貴重な食事処となっている。「エスパス・ビブリオ」が無くなると非常に困ると、常連たちは憂慮している。
齋藤氏は、グラフィックデザイナー歴50年に及び、広告キャンペーンなどのアートディレクションの参考にするため、デザイン、建築、歌舞伎、陶芸、浮世絵、ファッション、料理などといった多岐にわたる分野の本を、一冊、一冊、手にとって購入してきた。それぞれの本には、齋藤氏の仕事の軌跡が籠っている。
なお、齋藤氏のデザイン事務所(株)スーパースタジオも、作りたい本だけを出版している(有)スーパーエディションも「エスパス・ビブリオ」の店内にある。
2007年、原宿の千駄ヶ谷小学校の近くにオープン。デザイン事務所が収集した本を一般の人々に活用してもらおうとの思いで、ブックカフェを立ち上げた。ファッションが盛んな土地柄もあり、熱心な常連客の中には、毎日のように本をめくってスケッチをする人や、カメラで撮影する人など思い思いに過ごしている人もいたそうだ。
その後、本を見ながらランチをしたいなどとの希望を叶えるために、2013年に駿河台に移転してきた。広さは4倍に拡張した。
「最近の若い人たちは、スマホで簡単に情報を取るので、本を読もうとしない。同じ絵画や写真でも、Webの画像で見るのに比べれば、ページをめくりながらイメージを広げられるエディトリアルデザインは紙の質感、印刷による情報量の多さからくる質の高さは格段に違う」と、齋藤氏は若年層の本離れがデザインの質的低下をもたらさないかと、警鐘を鳴らす。
だからこそ、ブックカフェの役割は、ますます高まっていると痛感している。
「エスパス・ビブリオ」のもう1つの売りは、文学、映画、政治、音楽、美術等々と、バラエティに富んだ約500回にも及ぶ多彩なイベントだ。
例えば、イラストレーターの和田誠さんと宇野亜喜良さんのトークショー、元東大総長で文芸評論家・フランス文学者の蓮實重彦氏を迎えてのトークショーは3回も開催。
いつも情報を配信したその日に満席となった。作家の椎名誠氏、映画評論家の木全公彦氏、アンソロジストの濱田髙志氏、政治ジャーナリストの金平茂紀氏などといった各分野のエキスパートを迎えての講演会。フランス現代思想家の市田良彦氏と批評家の浅田彰氏の対談。渡邉聡監督の映画上映会。パリ在住のソプラノ歌手・高橋美千子さん、ギタリスト佐藤洋平さんのコンサート。
さらには、政治家で衆議院議員の村上誠一郎氏がホスト役となって、東京新聞の望月衣塑子記者、前川喜平氏、古賀茂明氏、浜矩子さん、山口二郎氏、落合恵子さんなどと連続で開催したトークショーは、毎日新聞一面にも掲載された。
マットティラピス・インストラクターの加藤明子氏の体感ストレッチ&トレーニングや福島美生氏による中国古代文字のワークショップも毎週開かれている。
また、齋藤氏は原爆被爆の悲惨さを伝える、英国の作家・ピーター・タウンゼント氏の『ナガサキの郵便配達』の英語版からの翻訳本を2018年に刊行し、高校生に無料で配るプロジェクト活動でも知られている。
また、齋藤氏は原爆被爆の悲惨さを伝える、英国の作家・ピーター・タウンゼント氏の『ナガサキの郵便配達』の英語版からの翻訳本を2018年に刊行し、高校生に無料で配るプロジェクト活動でも知られている。長崎県下の高校から始まり、 すでに13000人の高校生に配り終えた。
さらにカメラマンとして、現在活動を停止している市川猿之助氏の舞台写真を、彼が亀治郎と名乗っていた頃から撮影し続けてきた。亀治郎時代の5年間の舞台写真で構成した写真集『亀治郎の肖像』を2012年に刊行しており、今や貴重な写真集となっているがすでに完売。そして四代目猿之助の舞台写真は12年間、40万枚のストックがあるが、写真集にはできないでいる。あれほどの歌舞伎役者、四代目市川猿之助の写真集はこの世にない。
深刻な「都心部の賃料問題」は、都心の「カルチャーの危機」
さて、このように文化の発信基地として営業してきた「エスパス・ビブリオ」が巻き込まれた、家賃の問題だが、齋藤氏は「このような利益を追求しない仕事を都心で続けてゆくのは、よっぽどの資産家でもない限りもう無理だと思う」と頭を抱えている。
そして、齋藤氏は「僕はお金では買えないものをつくってきた。どこかに移転して、同じような店が仮につくれたとしても、ここの空気は再現できない。駿河台から、文化の灯を消したくはない」と訴える。
東京に限らず、日本中の街の風景がどんどんと似てきて、個性が感じられなくなっている。
駿河台も勢いがあるのは、予備校、学習塾、病院。
神保町の古書店街や、御茶ノ水駅前の楽器店街や画材屋街、小川町のスポーツ用品店街、いずれも往年の活気がなくなってきている。代わって、オフィスビル、高層マンション、大手ファーストフード店などに様変わりしているが、どこにでもあるようなものばかりで、街を歩いていても「日本のカルチエ・ラタン」の雰囲気は全く感じられなくなってきている。
かって映画の試写会といえば岩波ホールだったが今はもうない。川端康成、池波正太郎、松本清張などの文豪が愛したホテル、アメリカの建築家、ヴォーリズの代表作である山の上ホテルも、2019年に改修されたばかりなのに、今年2月から老朽化のため休業に入っている。今後、どのように再開発されるのか、プランが示されていない。
経済学には「合成の誤謬」という言葉がある。部分最適と部分最適が全部集まったものが、必ずしも全体最適にはならないという意味だ。
不動産の価値を上げるという部分最適のために、どこもかしこもタワーマンションや高層のオフィスビルになったら、景観が崩れて、最終的に住まう価値が崩落してしまう。結局は住民のためにもならない。
今、日本は観光では世界でトップクラスの人気があり、東京は、富士山、京都、大阪などと共にゴールデンルートに組み込まれている。
これは、日本の食をはじめとする文化や歴史が、インバウンドの観光客に評価されてのものである。「エスパス・ビブリオ」のような民間の無数の力が集まって、世界の人々を魅了する食と文化のコンテンツを形成している。
今、進行している駿河台を含む御茶ノ水から神保町の景観の破壊は、界隈固有の文化の発信地としての機能低下のみならず、東京の多様な個性ある街並みの価値を、画一化によって毀損している。「日本のカルチエ・ラタン」を、劣化縮小版の丸ノ内や大手町のようにして良いのかが、問われているのだ。
経済合理性の観点から、東京の全体最適にかなっていないし、国益にもならないのではないだろうか。
齋藤氏は、こう嘆く。
「この店に限らない。銀座にはかつて多くの画廊が存在して、華やいだ街に文化芸術の香りが満ちていた。最近では、どんどん減ってクラブなどに変わっています。都内から、お金儲けにはならない知と芸術文化的な生業を続ける場所が少なくなっている。私たち世代が文化を枯らして、次の世代に何を引き継げるのだろうか」
image by: 長浜淳之介