茨城県結城市出身で戦後を代表する女性詩人として知られる新川和江さんが、今年8月10日に95歳で亡くなりました。新川さんの詩は読んだことがなかったという評論家の佐高信さん。今回のメルマガ『佐高信の筆刀両断』では、新川さんの代表作と言われる「わたしを束ねないで」を読んで思い出したことがあると、ジャーナリスト魚住昭氏による“佐高信評”を紹介します。「佐高イズム」の3つの命題の1つに「束ねられるな」があるとする説で、「束ねられる」が暗示しているものを説明。新川さんの「束ねないで」が何を表現しているのかを伝えています。
私を束ねないで
気恥ずかしいからウロおぼえで書くが、「純粋とはこの世で1つの病気です。愛を併発してそれは重くなる」と歌ったのは詩人の吉原幸子だった。兄が三陽商会の吉原信之で、私はその兄にかわいがられたこともあって、妹の詩は読み込んだが、並び称される新川和江の詩は読んだことがなかった。
新川が8月10日に95歳で亡くなって、様々なところで追悼され、遅まきながら、その詩に触れている。代表作は「わたしを束ねないで」らしい。
わたしを束ねないで
あらせいとうの花のように
白い葱のように
と始まる詩に、こんな1節がある。
わたしを名づけないで
娘という名 妻という名
重々しい母という名でしつらえた座に
坐りきりにさせないでください
わたしは風
りんごの木と
泉のありかを知っている風
『日刊ゲンダイ』デジタルで、毎週、「追悼譜」を書いているので、亡くなった人には敏感に反応するのだが、ほとんど知らなかった新川のことは書けない。
しかし、この詩を読みながら、私はジャーナリストの魚住昭が『佐高信の新・筆刀両断』(講談社文庫)の解説にこう書いてくれたことを思い出した。この文庫は2006年3月に出ている。
本書の著者である佐高信の存在を私が意識するようになったのは、今から10年ほど前のことである。そのころ私は「個」と「組織」の軋轢に耐えかねて、会社を辞めようと思い始めていた。たまたまテレビを見ていたら、会社員のあり方をめぐる討論番組に佐高が登場してきて「束ねられるから駄目なんだ、バラけないと」と言うのを聞いた。私は思わず「そうだ!その通りだ」と小さく叫んだ。
以来、魚住は私のものを読むようになり、数年後に個人情報保護法に反対する集会で私と会うことになる。そして、伊丹万作の「戦争責任者の問題」について語り合って、『だまされることの責任』(高文研)という共著を出した。
先を急ぎ過ぎたが、拙著の解説で魚住は「佐高イズム」の核心は3つの命題で表されると指摘している。「だまされるな」「媚びるな」「束ねられるな」である。なるほど、そうなのか。他人に指摘されて納得することがある。この時もそうだった。そして魚住は結ぶ。
「ファシズムの語源はラテン語で古代ローマの儀式用の棒束を指すファシオという言葉である。そこから転じてファシオとは束ねることを意味するようになった」
新川はつまり、ファシズムへの反対を「わたしを束ねないで」の一言で表現したのである。新川は「詩人は死んでも作品は消えないの」と言ったという。
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