たくさん本を読むだけでは賢くなれない。「わかりやすく書かれた本を読んで得た知識」には何が足りないのか?

 

■「名詞的な知識」から「動詞的な知識」へ

名詞的な知識とは、弁証法ならば「弁証法」という呼び方を知り、その内実について記述(説明)できる状態を意味します。わかりやすい本で提示される知識は、おおむねこの水準の知識です。

では、その次の水準はと言えば、それは動詞的(ないしは動作的)な知識です。

同じく弁証法ならば、具体的な対象ついて弁証法を用いて思考できること。それが動詞的な知識を有しているということで、それは動作的=技能的な知識を持っているということでもあります。

たとえば何かしら状態Aがあり、それとは逆のBという状態があって、その二つのどちらかを選ばなければならないとなったときに、「いやまてよ、状態Cというのがありうるのではないか」と考えられるならばそれは弁証法的思考法を身につけていると言えます。

仮にそうした思考法を持たない状態Xがあり、持った状態Yがあるとして、XからYに移行したならば、それは「賢くなった」とひとまずは言えるでしょう。

しかしながら、その思考法=動詞的知識は、動作であり技能でした。技能は簡単には身につきません。訓練が必要です。

だからこそ、それが身についたときにバリューになります。

もし、たくさん本を読み賢くなって他人と差別化するぞ、という世俗的な欲求を持っているならば、たくさん本を読んでいるだけではぜんぜん足りません。そこで得られた知識を動詞的知識(技能)に換えていく必要があるのです。

■AIの登場で失われた「たくさん本を読む」ことの価値

少し前までならば、名詞的知識をたくさん獲得し、それらを使って知的な文章を生成できることにも価値がありました。「たくさん本を読む」ことに希少価値があったからです。

しかし、本当にびっくりするくらいの速度で環境が変わりました。言うまでもなく生成AIの登場です。彼らが有する名詞的知識は、ひとりの人間がどう頑張ったところで敵うものではありません。

名詞的知識を組み合わせて、それっぽい文章を生成することを人間がやると、基本的には下位互換にしかならないのです。

今後、生成AIの普及は著しく進んでいくでしょう。彼らが真なる知能(汎用人工知能)に至るかどうかとはまったく関係なく、情報利用においてさまざまな場面で生成AIが使われるようになっていくはずです。

それはつまり、希少価値が薄まる=バリューがなくなることを意味します。

だとしたら、なおさらX→Y型の動詞的知識の獲得を目指すのが賢明でしょう。

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