■とは言え軽んじてはいけない名詞的知識の価値
この話の難しくて面白いところは、名詞的知識がなくても、動詞的知識がある場合です。たとえば、「弁証法」という名詞を知らなくても、それと似た思考を行っている人はいるでしょう。
水素原子は、その名前を得る前からこの世界に存在していたのと同様に(これは哲学的に批判可能ですが、それはされておき)、名前を与えられていないが存在はしているものはたくさんあり、技能についてもそれは同様です。というよりも、技能的なものの大半は名づけられていません。
そうした観点から名詞的知識を軽んじる向きもありますが、SECIモデルが示すように名詞化することで共有が可能になる点と、技法の改良などの議論が可能になる点は見逃せません。
真に重要なものが動詞的知識であったとしても、いやならばこそ、名詞的知識を軽んじてはいけないでしょう。
■興味の幅を広げていくと見えてくるそれぞれの知識の「はたらき」
もう一つ、別のルートがあります。
たとえば「弁証法」という名詞を知った後で、これを提唱したヘーゲルってどういう人だったのかとか、それと関係するマルクスはどのようにこの概念を自分の思想に組み込んだのだろうか、という風に興味の幅を広げていくルートです。
それぞれの興味において得られるのもやっぱり名詞的知識でしかないかもしれません。しかし、そのような情報の関連(ネットワーク)を広げていくと、さらに興味が広がっていくと共に、それぞれの知識の「はたらき」が見えてきます。
そのような知識の獲得は、残念ながら、やればやるほど自分が「バカ」になっていく感覚があります。知らないことが山ほどあると自覚されるからです。
一方で、ただバカになるだけの感覚でもありません。バカはバカだけども、少しは知っている(≒自分の知識ネットワークを有している)という感覚も同時にはぐくまれます。
なんにせよ、複雑なものがそこにはあります。単純に「賢くなったハッピー」では終わらない何かです。
本を読むことの良さは、そういう複雑さの中に折り込まれているのでしょう。
(メルマガ『Weekly R-style Magazine ~読む・書く・考えるの探求~』2024年8月19日号の一部抜粋です。ご興味をお持ちの方はぜひこの機会に初月無料のお試し購読をご登録の上、8月分のバックナンバーをお求め下さい)
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