自分よりもはるかに「格上の格上」相手に堂々と勝負を挑み信念を貫く姿勢。“海賊とよばれた男”出光佐三の生き方から日本人が学ぶべきこと

 

国際石油資本や日本政府の圧力にも毅然として対峙

『日本人にかえれ』という著作もある出光佐三は、日本人としての誇りを強く持ったナショナリストであり、同時に一代で民族資本による石油元売り事業を立ち上げた起業家です。

彼は太平洋戦争で資産の大半を失いましたが、復員してくる社員を一人も解雇せず、玉音放送の二日後には「愚痴をやめよ」と社員たちを鼓舞し、「戦争に負けたからといって、大国民の誇りを失ってはならない。すべてを失おうとも、日本人がいる限り、この国は必ず再び立ち上がる」と述べ、「ただちに建設にかかれ」と号令を発して同社の再建に取り組みました。

また、欧米型資本主義や合理主義への警鐘を鳴らし続け、「互譲互助」など日本独自の思想や文化を尊重し、「黄金の奴隷になるな」と自らや周囲を戒めました。彼は生涯を通じて、社員を家族のように扱う「大家族主義」を貫き、国際石油資本やそれに迎合する日本政府の圧力にも毅然として対峙しました。

多くの一般市民が集まり喝采を送った「日章丸」の凱旋

言葉を変えれば、相当な変わり者でしたから、出光佐三にはさまざまな逸話が残っています。中でも最も有名なのは「日章丸事件」でしょう。

戦後、イランは独立こそしていましたが、当時世界最大とされていた同国の石油資源は、英国石油メジャーのアングロ・イラニアン石油会社(後のBritish Petroleum、BP)の支配下にありました。そのため、イラン国庫にもイラン国民にも石油の恩恵が回らない状況にありましたが、同国は1951年に石油産業の国有化を宣言し、英国をはじめとした西側諸国の追い出しにかかりました。

これに反発した英国は、中東に海軍を展開して海上封鎖し、イランに原油を買付に来た外国籍タンカーはすべて撃ち払うと宣言すると共に、イランに対する経済制裁や禁輸措置を強行しました。イランは態度を一層硬化させて「アーバーダーン危機」と呼ばれる一触即発の状況になっていました。

一方、戦後、日本には連合国による占領下でのさまざまな制約が課されていて、占領終結後も独自ルートでの原油の輸入は制限を受けており、それが戦後復興の大きな足枷にもなっていました。日本の早期経済復興を憂慮した出光佐三は、英国のイランに対する経済制裁は国際法上不当であると判断、原油買付のために自社のタンカー日章丸二世号をイランに派遣することを決意します。

イラン側は、当時中小企業に過ぎなかった出光興産に当初不信感を持っていたとされますが、同社は粘り強い交渉を続けてイランから原油買付の合意を取り付けます。英国との衝突を恐れる日本政府からの介入も何とかかわしながら準備を整え、1953年3月、日章丸二世号を神戸港からイランのアーバーダーン港に向けて極秘裏に出港させます。

日章丸は、航路を偽装して英国海軍の目を逃れながら4月にイランに到着、この時点で世界中のマスメディアの知るところとなり、国際事件として報道されました。日本でも、丸腰の民間企業のタンカーが、当時世界第二位の海軍力を誇っていた英国海軍に喧嘩を売った事件として大きく報道されました。

急いで原油を積み込んだ日章丸は、世界が注目する中、イランを出港し、英国海軍の裏をかいて浅瀬や機雷を回避しながら奇跡的に海上封鎖を突破して、5月に川崎港に無事到着しました。日章丸の凱旋には、多くの一般市民が集まってその快挙に喝采を送って祝ったといいます。

アングロ・イラニアン社は、積荷の所有権を主張して出光を東京地裁に提訴、日本政府に対しても、出光に対する行政処分を要求して圧力をかけましたが、英国による石油独占を快く思っていなかった米国の黙認や、出光の快挙に沸き立つ世論の後押しもあって、行政処分は見送られました。裁判でも、出光側の正当性が認められ、アングロ・イラニアン社が提訴を取り下げたため、最終的には出光側の全面勝利に終わりました。

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