今年3月に80歳でこの世を去ったみのもんたさん。数多の番組で活躍しテレビの黄金期を支えたみのさんは、間近で見ていた人たちにとってどんな存在だったのでしょうか?心理学者の富田隆・元駒沢女子大教授がみのさんと初めて出会ったのは、日本テレビの昼帯番組『午後は○○(まるまる)おもいッきりテレビ』。仲が深まるにつれ見えてきた希代の名司会者の“素顔”は、富田氏にとってまさに驚きの連続だったと言います。(メルマガ『富田隆のお気楽心理学』より)
※本記事のタイトル・見出しはMAG2NEWS編集部によるものです
日テレ『おもいッきりテレビ』秘話――みのもんたさんを偲んで
2025年3月1日、みのもんたさんが亡くなりました。1944年(昭和19年)生まれでお誕生日は8月ですから、80歳でした。
みのさんの訃報を聞いて、つくづく「テレビの時代が終わったな」と思った次第です。
一方では、CX(フジテレビ)の「女子アナ上納疑惑」やらも延々と未だに話題になっており、ついにフジサンケイグループの「ドン」日枝久さんまで代表を辞任いたしました。これに先立つこと昨年の暮れには、株式会社読売新聞グループ本社代表取締役のナベツネこと渡邉恒雄さんも亡くなっていましたから、やはり、ひとつの時代が終わったという感は否めません。
みのさんはテレビの「黄金期」を支えた「顔」の一人でした。
私が始めてお会いしたのは、彼が「日本テレビ」の昼帯番組『午後は○○(まるまる)おもいッきりテレビ』の司会を始めた頃でしたから、1989年頃だったと思います。
当時『おもいッきりテレビ』のコーナーのひとつに、「○○度チェック」というのがありまして、10問ほどの簡単な設問に「Yes」「No」で答えていくと、「親ばか度」「石頭度」「心配性度」「見栄っ張り度」といった性格や心理の傾向が分かるというものでした。
これを制作していたのが私で、時々は番組にも出演させていただいておりました。大学の講義もありましたから、睡眠時間を削り、朝は4時起きを繰り返して「チェック」を作っていたものです。
お陰様でこの「○○チェック」の評判は良く、時間帯の視聴率も高くなり、これをまとめた本まで出たほどです。雑誌風の本の表紙を飾っていたのは、司会のみのさんとアシスタントの高橋佳代子アナウンサーのお二人です。
みのさんはプライベートでも「あのハイテンション状態」のままだった
こうしたご縁で、みのさん主催のゴルフコンペなどにも加えていただき、酒宴をご一緒する機会も多くなり、夜中のお風呂でバッタリお会いするなんてこともありました。
そこで驚いたのは、半ばプライベートな遊びの場でも、みのさんのテンションが上がりっぱなしなことです。
生の番組内で、一般の高齢なお客様に「お嬢さん!」と笑顔で語りかけるような「ハイテンション状態」が、プライベートの場面でもそのまま持続しているのです。
彼のサービス満点のマシンガントークは、ゴルフ場に向かうチャーターバスの中でも、宴会の席でも変わりません。
もちろん、夜中のお風呂で会った時も軽い躁(そう)状態でした。とにかく、いつでも周りを明るくする人でした。(次ページに続く)
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いつ寝ているのか?心配する私にみのさんが返した「意外な一言」
90年代に入ると、彼のレギュラー番組は怖ろしい数に増え、業界内では「いつ寝ているんだろう?」と噂されるようになりました。
そんな忙しい状況でも、赤坂に繰り出して飲むことはやめなかったようです。
あるパーティーでお会いした時に、彼の身体を心配した私が「少し、仕事の時間を減らしてはいかがですか?」と余計な忠告をしたことがあります。
すると、みのさんは、めずらしくしんみりした声になり、「この業界では、いつ急に仕事が来なくなるか分からないんですよ」と言い出すではありませんか。そして、「ですから、仕事をいただける時には、とにかくそれを受けなきゃいけないんです」と言うのです。
当時、次々に高視聴率を叩き出し、引っ張りだこのみのさんであっても、ある種「強迫神経症的」と言っても良いような「仕事が無くなることへの不安」を隠し持っていたのでしょう。
その後、大学の仕事量が増えたこともあり、私のテレビ露出はめっきり少なくなりました。正直に言えば、出たいと思うような番組が減ってしまったのも、私がテレビ業界から距離を置くようになった一因です。
そして、みのさんとご一緒する機会もほとんど無くなりました。
ですから、私がみのさんを間近に見ることができたのは、彼が一番輝いていた頃だったのかもしれません。そして、彼の番組出演がインフレ状態だった頃、すでにバブルは崩壊していましたが、まだまだテレビ業界は大らかでした。ネットが君臨する今の時代とは違って、広告宣伝の王座は、相変わらずテレビが独占していたのです。
使えるお金も豊富で、倫理規範もゆるゆるというか、今の様な細々としたコンプライアンスなどというものも存在していなかったように思います。年寄りの業界人が「昔は良かった」と言う理由のひとつは、当時の規範のゆるさ、あるいは自由度の高さ、にあるのではないでしょうか。
そんな時代だったから、局の側も、みのさんが発揮した「生番組」での自由奔放さや機転の効いたアドリブなどを活かすことができたのだと思います。(次ページに続く)
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私が間近で目撃した「一番輝いていた頃のみのもんた」伝説の瞬間
その頃の話ですが、日曜昼の生番組で、みのさんと高級ワインを二本空けてしまったことも、今となっては良い思い出です。
構成台本では、ワインの香りを愛でて、軽くテイスティングするだけになっていました。
ところが香りを嗅いでいる内に、みのさんが脱線し始めたのです。
「今日は日曜日。昼からワインをいただいてもバチは当たりませんよね」と彼が言い出したものですから、こちらもついつい、「フランス辺りでは、平日だって昼間からワイン飲んでますし」と応じて、思いっきりグラスを飲み干してしまいました。
当時のスタジオのライトは今とは比べ物にならないほど熱かったので、出演者はいつも喉が渇いていて、目立たない場所に水のボトルが用意されていました。
その乾いた喉に、フランス産の芳醇なワインが何と美味しかったことか!
開き直った二人は、大笑いで乾杯を繰り返し、あっという間にボトル一本が空になりました。
すると、「あ、まだ一本ありますね」と、みのさんが二本目のコルクをさっさと抜いてしまったのです。
上機嫌で、飲みながら番組は続きます。
周囲のスタッフは冷や汗ものですが、生番組なので、カットすることもできません。
それでも彼のアドリブと司会者の本能?で、放送事故も起こさず、ほぼ段取りに沿って番組は進行したのですから、むしろこれ、ちょっと神業的とも言えるのではないでしょうか。テレビの向こう側のお茶の間では、「何か、今日は盛り上がってるね」と不思議に思っていたことでしょう。
一事が万事。あの頃は、今では考えられないような、大らかな時代でした。
そんな「ベルエポック(Belle Epoque美しい時代・古き良き時代)」は、まさに「Gone with the Wind(風と共に去りぬ)」、もう二度と戻りません。もはや、帰らぬ日々の思い出となってしまいました。
彼の悪戯小僧のような明るい笑顔は、今の時代には似合わないのかもしれません。それが似合うのは、時空を超越した天国での宴会だけでしょう。
今頃はみのさん、和風の天国で、先に来ていた奥様や赤坂のお姐様方に囲まれ、上機嫌で、美味しいお酒を召し上がっているのではないでしょうか。(メルマガ『富田隆のお気楽心理学』3月8日配信号「ベルエポック」より抜粋、再構成。富田隆氏のメルマガ最新号はご登録のうえお楽しみください。初月無料です)
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