半世紀前までは「仲が良かった」イスラエルとイラン
今から半世紀ほど前までのイスラエルとイランは、とても仲のいい国でした。イランはイスラエルに石油を売り、両国の間には定期便が飛び交い、物流や人的交流も盛んな友好国でした。当時の第2代国王だったモハンマド・レザー・パーレビ皇帝は、アメリカを後ろ盾にして、当時のケネディ政権の要求に答える形で「婦人参政権の導入」や「ヒジャブの着用禁止」などの「脱イスラム」を含む欧米路線の近代化を進めていました。当時のイスラエルとイランは「親米」という点でも一致していたのです。
しかし、パーレビ皇帝の独裁的とも言える「脱イスラム」を含む政策を以前より批判していたイスラム教シーア派の最高指導者ルーホッラー・ホメイニ師が、シーア派を中心に「反体制運動」を呼び掛けたため、国内での対立が激化します。ホメイニ師の国民への影響力を恐れたパーレビ皇帝は1964年、ホメイニ師を拉致して国外追放としたため、ホメイニ師はトルコへ亡命しました。
その後、シーア派の聖地であるイラクのナジャフに移ったホメイニ師は、イラク国民に改革を呼び掛けるとともに、自身の「イスラム法学者による統治論(ヴェラ-ヤテ・ファギーフ)」を成熟させて行きました。そして1978年、フランスに亡命し、フランスを拠点としてイラン国内の反体制派による抵抗運動を指導しました。パーレビ皇帝の欧米路線は竹中平蔵の新自由主義と同じく国民の格差を広げ続け、拡大した貧困層を中心に体制批判の声が挙がっていたため、この抵抗運動は加速的に高まって行ったのです。
翌1979年1月、抵抗運動の高まりに恐怖を覚えたパーレビ皇帝は、政権を丸投げして家族とともにエジプト経由でアメリカへ亡命しました。これを受けてホメイニ師は15年ぶりにイランに帰国し、すぐに「イスラム革命評議会」を組織し、国民投票による98%の賛成という圧倒的な支持を受けて「イラン・イスラム共和国」の樹立に至ったのです。そして、自身が終身任期の最高指導者という国家元首に就任したのです。
この一連の流れが「イスラム革命(イラン革命)」と呼ばれるもので、行政府の長である大統領よりも、宗教指導者の権力のほうが上に来るという、極めて珍しい統治体制が誕生したのです。皇室がある日本や王室があるイギリスは「立憲君主制国家」なので、形式としての権威は天皇や国王にありますが、政治の実権を握るのは大統領や首相をトップとした政府です。しかしイランの場合は、その大統領や首相も最高指導者の管理下に置かれたのです。
ホメイニ師は「アメリカは大サタンだ!」と叫び、アメリカへ亡命したパーレビ皇帝の身柄の引き渡しを求めて、テヘランのアメリカ大使館を占拠しました。そして、52人のアメリカ人を人質として444日も拘束するという事件まで起こしたのです。このホメイニ師が作り上げた「イスラム法学者による統治」にとって、何よりも重要なのが国民全員に共通する敵でした。そのため、当時のイランには街のいたるところに「アメリカに死を!」「イスラエルを地図上から消滅させよ!」というスローガンが貼ってあったそうです。
そして、1989年にホメイニ師が86歳で没すると、現在のアリー・ハメネイ師が第2代の最高指導者に就任し、現在に至ります。ハメネイ師としては、絶対に首を縦に触れないのが「イスラム体制からの転換」であり、核開発は中東のイスラム世界で力を持つための手段でした。同じイスラム教でも、イランのハメネイ師は少数派のシーア派です。2つの聖地メッカとメジナを擁する大国サウジアラビアを頂点とする多数派のスンニ派の国々が、中東では圧倒的影響力を誇っているのです。
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