中年男性の“恨み”が大結集。神谷代表の参政党が成功した「氷河期世代の不満」取り込みと「支持基盤の限界」という課題

 

吹田市議会での孤立──「右翼」のレッテル

2007年の吹田市議初当選後、神谷氏は1人会派「吹田新選会」を結成し、教育問題に特化した活動を展開した。しかし、彼の政治姿勢は議会で激しい反発を招いた。

当時の吹田市議会は日本共産党が第一党を占めており、神谷氏の保守的な主張である「卒業式での「日の丸・君が代」実施の要求、親学の推進、教育勅語の評価」は強い対立を生んだ。神谷氏は「右翼」と呼ばれて孤立し、議会内での立場は極めて困難なものになった。

この経験は、神谷氏の政治観に大きな影響を与えた。既存の政治システムに対する不信と、自らの信念を貫く姿勢を強化させる結果となったのだ。しかし同時に、協調性を欠く政治手法として批判される要因ともなった。

橋下徹との確執──維新からの排除

2009年2月、神谷氏は橋下徹大阪府知事と若手市議による「大阪教育維新を市町村からはじめる会(教育維新の会)」を結成し、中心的役割を果たした。しかし、翌2010年の大阪維新の会結党時には参加を断られている。

この背景には、神谷氏が推進する「親学」に対する橋下氏の拒否反応があった。神谷氏は橋下氏に親学の導入を提案したが、「親学はよそでやって下さい」と断られたと後に証言している。

この件について、神谷氏は2012年の『週刊文春』で橋下氏を批判する記事を発表した。政治的な理念の違いが個人的な確執に発展し、その後の政治活動に影響を与えた例として注目される。

国政挑戦での連続落選──自民党時代の挫折

2012年、神谷氏は自民党に入党し、大阪13区支部長として衆院選に出馬した。当時の安倍晋三総裁(後の首相)や小泉進次郎青年局長の応援を受けながらも、日本維新の会候補に敗れて落選した。

この選挙戦での敗北は、神谷氏にとって大きな転機となった。地方議員としての実績と保守的な政治姿勢を武器に国政進出を図ったが、維新旋風の前に敗れ去った。

さらに2015年には大阪府議選にも無所属で挑戦したが、再び落選を経験している。この二度の敗北により、神谷氏は一時的に政治の第一線から退くことを余儀なくされた。

YouTube配信への転身──発信手法の革新

政治家としての道が閉ざされたかに見えた神谷氏は、2013年からYouTube番組「CGS(Channel Grand Strategy)」を開始した。この決断は、後の参政党躍進の基盤となる重要な転換点だった。

現在、同チャンネルは登録者数45.8万人を超える影響力を持つ。歴史、教育、経済、国際情勢などを扱うコンテンツは、従来の政治番組とは異なる新しい形の政治発信として注目された。しかし同時に、この時期の発信内容には後に「陰謀論」と批判される要素も含まれていた。

参政党結成──「政党DIY」の理念と現実

2020年の参政党結成は、神谷氏の政治的復活を象徴する出来事だった。「投票したい政党がないなら、自分たちでゼロからつくる」という「政党DIY」のコンセプトは、既存政党への不信を抱く有権者に強くアピールした。

しかし、党の運営過程では様々な問題も露呈している。創設メンバーの松田学氏との路線対立、武田邦彦氏の離党、内部の意見対立など、組織のトップに立つ人物としての課題が表面化している。

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