それでも「核武装は安上がり」に賛同するのか?原爆の犠牲になった妻子4人を自らの手で焼いた俳人による「慟哭の記録」

 

原爆という人類史上最悪の兵器の残酷さを伝えるための器

おばあちゃんは東京の下町の家を一人で守っていましたが、3月10日の大空襲で近隣の家が焼かれ、おばあちゃんの家も延焼してしまいました。おばあちゃんは臨月のお腹を抱えて防空壕に飛び込み、夜が明けてから数キロ離れた親戚の家に助けを求めました。そして翌4月、おばあちゃんはその親戚の家で、初めての女の子、あたしの母さんを産んだのです。

そして、運命の5月25日が訪れました。東京の夜空を埋め尽くすかのようなB29の大編隊は、焼夷弾の絨毯爆撃で、数十万人もの市民が暮らす住宅街を焼き払って行きました。焼夷弾の直撃を受けて燃え上がる親戚の家から飛び出したおばあちゃんは、生まれたばかりの母さんを抱いて逃げまどいます。防空壕には入れてもらえず追い払われ、燃え上がる町をさまよったおばあちゃんは、多くの人々が向かう隅田川方面とは別の方向へ逃げたことが幸いして、奇跡的に生き残りました。

数日かけて千葉の遠い親戚の家に辿り着いたおばあちゃんは、その家で終戦を知ります。その後は、その家の家業の手伝いと和裁の内職をしながら、必死で母さんを育てつつ、おじいちゃんの帰りを待ち続けました。しかし、終戦から一年以上が経っておばあちゃんのもとに届いたのは、おじいちゃんの死亡報告書と、遺骨の代わりに小石が入った箱でした。

戦後の混乱期を生き抜いたおばあちゃんは、和裁の腕を生かして復興した呉服屋に住み込みで雇ってもらい、母さんを育てました。おばあちゃんは母さんが片親だということで引け目を感じないように、手をつけずに貯めていた戦死者遺族年金で、母さんを大学へ進学させました。絵を描くのが大好きだった母さんは、志望した美術大学へ進学することができ、そこで知り合った父さんと結婚したのです。そして、あたしが生まれました。

ここでは便宜上「おばあちゃん」と書いて来ましたが、実際には戦争で夫を奪われた二十代半ばの女性が、戦禍で産んだ我が子を女手ひとつで育て上げた半生なのです。未だに正確な犠牲者数の分からない東京大空襲ですが、犠牲者数を「7~10万人」と見積もっている資料もありますし「約15万人」としている資料もあります。こうしたデータを見ると、おばあちゃんが生き残ったことも、母さんが生き残ったことも、どちらも奇跡のようなものなのです。

そして、その奇跡から、あたしが生まれたのです。もしも東京大空襲で母さんが犠牲になっていたら、あたしはこの世に存在していませんでした。ここまで考えた時、あたしは初めて、自分が生まれる前の戦争と、今ここにいる自分とが結びついたのです。これがあたしのルーツなので、あたしにとっての戦争のイメージは、広島と長崎の原爆投下でなく、東京大空襲となったのです。

しかし、そんなあたしでも、今では原爆投下を自分ごととして感じられるようになりました。それは、長崎の原爆を体験した「松尾あつゆき」という俳人の句を読んだからです。俳句といっても、あたしが実践している有季定型の一般的な俳句ではなく、種田山頭火や尾崎放哉に代表される音数や季語にこだわらない「自由律俳句」ですが、自由律だからこそ原爆という人類史上最悪の兵器の残酷さを伝えるための器となりえたのだと思いました。

この記事の著者・きっこさんのメルマガ

初月無料で読む

print
いま読まれてます

  • それでも「核武装は安上がり」に賛同するのか?原爆の犠牲になった妻子4人を自らの手で焼いた俳人による「慟哭の記録」
    この記事が気に入ったら
    いいね!しよう
    MAG2 NEWSの最新情報をお届け