それでも「核武装は安上がり」に賛同するのか?原爆の犠牲になった妻子4人を自らの手で焼いた俳人による「慟哭の記録」

 

瀕死の我が子の口に木の枝をくわえさせた母

松尾あつゆきは明治37(1904)年、長崎県北松浦郡に生まれました。地元の高校を卒業後、商業学校の教員となり、その数年後、自由律俳句の大家、荻原井泉水(せいせんすい)に師事して、自由律俳句にのめり込みます。種田山頭火や尾崎放哉は先輩で、山頭火が長崎を訪れた際には、あつゆきが長崎を案内しています。その後、あつゆきは結婚し、四人の子をもうけて幸せに暮らしていたのですが、戦争が始まったため、国策として教員を辞めて長崎の食料営団に勤務させられます。そして、昭和20年8月9日を迎えました。

「原爆句抄」松尾あつゆき

八月九日 長崎の原子爆弾の日。
我家に帰り着きたるは深更なり。

「月の下ひっそり倒れかさなっている下か」

十日 路傍に妻とニ児を発見す。
重傷の妻より子の最後をきく(四歳と一歳)。

「わらうことをおぼえちぶさにいまわもほほえみ」

「すべなし地に置けば子にむらがる蝿」

「臨終木の枝を口にうまかとばいさとうきびばい」

長男ついに壕中に死す(中学一年)。

「炎天、子のいまわの水をさがしにゆく」

「母のそばまではうでてわろうてこときれて」

「この世の一夜を母のそばに月がさしてる顔」

「外には二つ、壕の中にも月さしてくるなきがら」

十一日 みずから木を組みて子を焼く。

「とんぼうとまらせて三つのなきがらがきょうだい」

「ほのお、兄をなかによりそうて火になる」

十二日 早暁骨を拾う。

「あさぎり、兄弟よりそうた形の骨で」

「あわれ七ヶ月の命の花びらのような骨かな」

十三日 妻死す(三十六歳)。

「ふところにしてトマト一つはヒロちゃんへこときれる」

十五日 妻を焼く、終戦の詔(みことのり)下る。

「なにもかもなくした手に四枚の爆死証明」

「夏草身をおこしては妻をやく火を継ぐ」

「降伏のみことのり、妻をやく火いまぞ熾りつ」

…これが全文ですが、自由律俳句は短文と区別がつかない場合があるため、俳句作品にはカギカッコをつけました。あたしは20年ほど前にこの作品と出会ったのですが、初めて読んだ時、涙が止まらなくなってしまいました。そして、それ以来、毎年8月9日の黙祷の前に読み直すのですが、やはり涙が止まらなくなってしまうのです。

お母さんは自分も全身が焼けただれて瀕死の状態なのに、死にかけている我が子の口に木の枝をくわえさせて「うまかとばい」「さとうきびばい」だなんて、あたしは、この悲しみと苦しみの中でのお母さんの思いが、胸に痛すぎて耐えられません。そして、先に逝った4歳と1歳の子のあとに、中学1年の長男がお堀の中から這い出して来て、倒れているお母さんのところまで必死に這って来て、ニコッと笑ったまま、こときれたのです。

その翌日、松尾あつゆきは、拾い集めて来た木を組んで、瓦礫の中で三人の我が子を焼きました。「とんぼう」というのは「トンボ」のことですが、三人の我が子の亡骸(なきがら)に、焼く前にトンボがとまったことが、せめてもの慰めだったのです。だって、それまでは、蝿ばかりがたかっていたのですから…。

昨日まで元気だった我が子たちが、次の日には焼けただれて死に、その亡骸に蝿がたかっているなんて、親として耐えられるわけがありません。だからこそ、その亡骸に一匹のトンボがとまってくれたことが、助けてやれなかった自分自身の気持ちに対する慰めでもあったのでしょう。そして、次の日の朝早く、子どもたちの骨を拾ったのです。たった7カ月で死んで行った我が子の、小さな小さな骨を「命の花びらのような」だなんて、これほどの悲しみがあるでしょうか。

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