高市を担いで安倍政治の復活を図る麻生らの謀略を砕け!秋口までに引きずり降ろされる石破が「戦後80年談話」でカマすべき“最後っ屁”

 

小泉純一郎も談話で用いた「侵略」という文言

周知のように、日本の朝鮮、中国はじめアジアへの侵略戦争の責任についての歴代内閣の言及の仕方は、「我が国の行為」が諸国に「多大な苦痛と損害を与えた」ことを「深く自覚する」(1982年8月の鈴木善幸内閣・宮沢喜一官房長官談話)といったシャキッとしないものであったが、それを打ち破ったのは細川護熙首相だった。

彼は、首相になってすぐの1993年8月23日の最初の所信表明でこう述べた。

▼昭和20年8月、我々は終戦によって大きな間違いに気づき、過ちを再び繰り返さないかたい決意で新しい出発を誓いました。

▼それから48年を経て我が国は今や世界で有数の繁栄と平和を享受する国となることができました。……我々はこの機会に世界に向かって過去の歴史への反省と新たな決意を明確にすることが肝要であると考えます。

▼まずはこの場をかりて、過去の我が国の侵略行為や植民地支配などが多くの人々に耐えがたい苦しみと悲しみをもたらしたことに改めて深い反省とおわびの気持ちを申し述べる。

さらに細川は9月の国会でこれについて問われ、「私が侵略戦争、侵略行為という表現を用いたのは、過去の我が国の行為が多くの人々に耐えがたい苦しみと悲しみをもたらしたとの同一の認識を率直に述べたものでして、改めて深い反省とおわびの気持ちを表明したものです」とその意義を強調した。

彼自身、このことを自分の首相としての仕事の中で最重視しているようで、最近も倉重篤郎に「細川政権で世の中はどう変わった?」と問われ、「一番の仕事は、先の大戦を侵略戦争だと明言したことだと思う」と即答している(「サンデー毎日」8月3日号)。「〔これが〕戦後50年の村山富市首相談話にも繋がり、アジア各国の信頼を繋ぎとめることができた」とも。

村山談話は、「我が国は……国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました」と、一層明確な表現を採り、面白いことに2005年の小泉純一郎首相の戦後60年談話もそれをほぼ踏襲した。

苦心惨憺の作文だったトリッキーな「70年安倍談話」

ところがこの流れを何とか引っ繰り返そうとしたのが2015年、戦後70年の安倍晋三首相で、巧妙なことに、村山・小泉の談話と同じく「植民地支配」「侵略」という言葉は使われているが、その主語として「日本」は明示されておらず、欧米による植民地支配や侵略も含めた一般論として「訣別すべき」とするに止めた。

また過去の歴代首相の「おわび」を引用して「その立場は今後も揺るぎない」と述べてはいるものの、安倍自身を主語として謝罪表明をすることは避けた。まあ往生際が悪いと言うか、あちこちに抜け道を設営して、右翼側からの批判に言い抜けできるようにした苦心惨憺の作文だった。

とりわけ安倍が執着したのは「あの戦争に何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」と、謝罪はこれで打ち止めと宣言することで、彼自身が「ここが大事なところで、もう謝る必要はないんだよ」「80年には談話を出さなくていい」などと、当時テレビなどでそこだけを取り出して解説した。

ところが談話の文面ではそのすぐ後に、「それでもなお、私たち日本人は、世代を超えて、過去の歴史に真正面から向き合わなければなりません。謙虚な気持ちで、過去を受け継ぎ、未来へと引き渡す責任があります」と、まるで矛盾した内容のフレーズがくっついている。

これは、船橋洋一『宿命の子 安倍晋三政権クロニクル』(文藝春秋、24年刊)第7章によると、当時、公明党を代表して国交相として入閣していた太田昭宏が、創価学会の池田大作名誉会長の意向を背に交渉し、付け加えたもののようだ。

安倍は前段を強調して右翼を黙らせ、太田は後段を付け加えたことで創価学会を説得するというトリッキーな文章で、これこそ安倍の懐刀の今井尚哉秘書官が得意とした詐術である。

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