言うまでもなく日本経済を大きく左右する円の価値。かねてより「円安は利益、円高は苦労」という認識がなされていますが、近年は円安での推移が継続しています。果たしてこの現状は私たち日本人にとって歓迎すべき状況なのでしょうか。今回のメルマガ『冷泉彰彦のプリンストン通信』では作家で米国在住の冷泉彰彦さんが、我が国の経済と日本円が置かれている「現在地」を詳しく解説しています。
※本記事のタイトル・見出しはMAG2NEWS編集部によるものです/原題:円安という袋小路を考える
アベノミクスで円安に。袋小路に落ちた日本円
考えてみれば、70年代以来の長い間、日本人には「円安は利益、円高は苦労」という思考が染み付いていました。それこそ、70年代には円高で多くの産業が潰れたこともあります。特に洋食器、つまりフォークやスプーンなどを輸出していた新潟の燕+三条のエリアは、円高の直撃で多くの企業が倒産したとして話題になったのでした。
80年代になりますと、自動車や電気製品の「集中豪雨的輸出」がアメリカなどで問題視されるようになりました。このときは、産業が競争力を持つと、モノが売れて輸出が拡大する、そうすると日本経済が強くなって円が強くなる、そんな循環が回っていました。
円高になると輸出産業はドルで見たコスト(日本国内での製造コスト)が膨張しますから、現地でのドル建ての売上からコストを引いた利益は圧縮されました。更に、せっかく稼いだ現地での利益も、円高になると円に倒した際には縮小されてしまいます。ですから産業界は円高を嫌いました。
その一方で、円高メリットも勿論あり、特に輸入品は安くなりましたが、良い品物がどんどん輸入されて安く売られると国内産業が困るので、関税や非関税障壁で守るということが行われました。ですが、消費者はそのことをわかっているので、海外に買い物ツアーによく出かけたのでした。
つまり、関税と非関税障壁で膨張した国内価格と、海外現地価格には大きな差があったのです。これが当時の内外価格差というものです。そこで、ロンドンの百貨店や、香港の免税店へ向かって多くの日本人が海外に行くということになりました。
企業にとっては、円高は決して歓迎していなかったわけですが、それでも高い円によるカネが積み上がり、内部のキャッシュと、ファンナンス余力も含めると、日本企業の多くは巨大な資金余力を持つに至りました。そこで、そのカネを使って、海外の多くの企業を買うということが行われました。
例えば、松下電器(パナソニック)は、米国の映画スタジオMGMを、ソニーはコロンビア映画を、三菱地所はロックフェラーセンターを、また西武セゾンGはインターコンチネンタルホテル全体を、青木建設はウェスティンホテルの全体を、といった具合です。但し、しっかりした買収後の計画があったわけではなく、この中で、ソニー以外の案件は失敗に終わっています。
日本経済はバブル崩壊で一気に弱体化したというイメージがありますが、実際はそうではなく、株価の最高は89年末で以降は下がり、土地もそうでしたが、本当に日本経済がガタガタになったのは、97年の金融危機からです。これは、実際に不良化した債権について、「当事者の刑事・民事訴追が時効になる」つまり、バブル崩壊当時の権力者が逃げ切る時間を与えて、処理を先延ばししたからでした。
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一種の均衡点だった「ドル円の120円」という水準
それはともかく、では通貨の円はどんどん下がったのかというと、そうではありませんでした。理由としては3つぐらいがあると思います。1つは、世界各国の財政や景気も浮き沈みが激しく、特に財政は米国やEU諸国も悪化の一途だったので、それとの比較で日本円の評価が上がったのです。特に、鳩山政権など民主党政権の時代は、リーマンショック直後だったのでショックの直接的影響が少ないとされた円は買われました。
2つ目は、一種の神話ですが、日本の場合はどんなに政府の債務が巨大、つまりGDPの200%超えという先進国最悪の水準でも、その借金全額を日本の個人金融資産が引き受けていたからです。ですから、日本という国としての債務はチャラなので、円という通貨も大丈夫という信用が出来上がっていました。
3つ目は、なんだかんだ言って円売りドル買いの流れが今ほどではなかったのです。例えば、トヨタなどは80年代後半からは輸出自主規制の対象となって、北米への完成車輸出が制限されました。同時に、徐々に現地生産も開始していました。ですが、2010年ごろまでは「レクサスの品質はケンタッキーでは無理」なので、どうしても田原工場(または九州)で作るとしていました。
台数の制限を受ける分は、日本国内で作って出す、その場合には日本国内で作るのは高額な高付加価値車を中心にする、ということをやっていました。ですから、ジャンジャン国外に投資をするというのでもなかったのです。また、リーマンショックの衝撃が大きかったので、純粋投資目的でドルを買って国外に投資するということも控えられていました。
ですから、第二次安倍政権が登場した2012年末の時点では、1ドル80円前後という円高で推移していたのでした。当時の安倍総理は、ここに目をつけました。この円高を是正するために、当時の黒田日銀総裁は流動性供給を無制限に行い、日銀による国債購入を進めました。そのようにして、2020年までの8年間でドル円を120円前後まで下げることに成功したのでした。
たぶん、この120円というのが、一種の均衡点だったのだと思われます。ちなみに、当時はちょうど原油安の時代であり、最も重要なエネルギーという輸入品について、円安に振っても、価格が下がって相殺されるというラッキーにも恵まれました。
問題はこの2020年以降の情勢の転換です。いろいろな要素が絡んでいるので、実際の為替レートを形成しているメカニズムについては、明確にはわかりません。ですが、現在の日本経済、そして日本円の置かれている位置ということでは、以下のような指摘ができると思います。そして、この円安という現象は、簡単には動かせないし、この先の道のりもよく見えない、一種の袋小路に追い詰められたような状況と言えます。
1つ目は、大企業の動向です。円安になると、輸出産業がダイレクトに売上利益でメリットを享受し、それが国内GDPに反映し、実際にキャッシュとなって国内を潤すということは、現在では極めて限定的です。にもかかわらず、大企業が円安を望むのは「海外で稼いだ利益を円に倒すと膨張して見える」からです。
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「企業の内部留保を吐き出せ」と叫ぶ野党の経済オンチ
多くの企業が生産拠点を海外に移し、更には海外の企業を買収し、また資産の多くをドル建て投資に回しています。そんな中では、円安はそのまま円建て業績の拡大になるわけです。こんなに国内が貧しくなっているのに、多国籍企業だけは、初任給が30万円とか、初任給として年収500万を提示、あるいは30歳で1,000万などと景気のいい話をしています。
実際に、この夏にハワイへ行く日本人は相変わらずいますし、国内の旅館などが一泊2名で10万クラスの値付けをしている中には、外需だけでなく確実に内需もあります。そして、以前とは違い、リッチな高齢者に加えて、リッチな30代も出てきています。これは、その層がグローバル経済にリンクしており、ドル建ての業績を背景に、膨張した円建て給与を得ているからです。
この状況は各企業にとっては、反転させることはできません。例えばですが、経済を知らない野党などが「企業の内部留保を吐き出せ」などと言っていますが、これはできません。企業の内部留保、つまり積み上がった利益の山というのは、その多くが海外投資に回っているからです。
具体的には、工場や研究所などの設備投資、提携先や隣接業種などの買収といった形で投資されています。現在の会計制度は、かなりリアルな価値評価になっていますから、仮に大きく円高に振れますと、海外の資産は縮小するので、その年度の利益は吹っ飛びます。
実際には、日本の優良な多国籍企業というのは、ドルの世界で生きています。ですから、ドルから見るとドル建て資産というのは、円高になっても変わりません。一方で、ドルから見た日本国内のオペレーションや資産評価は、円高になると拡大して見えるわけです。
そうはいっても、日本の市場は縮小途上なので、多国籍企業としての優先順位は大したことはないと思います。ですが、仮に日本に本社があった場合に、この先にもしも円高になった場合には、DXが進まず、リストラもできない中で非効率となった日本の間接部門は、ドル建てコストが増大して、大きな問題になる可能性はあると思います。
いずれにしても、現在の日本企業、特に日本発の多国籍企業の場合は、この水準の円安を前提に経営をしているわけですから、極端な円高、例えば120円以上というのは耐えられないと思われます。
2つ目は、金利の問題です。今現在の円を取り巻く金利の動向としては、日本は相変わらずの低金利で、アメリカはかなり金利が高いものの、トランプ政権は金利下げの圧力を加えています。どうしてアメリカの金利が高いのかというと、景気が加熱しているからです。コロナ禍では知的産業がビクともしなかった中で、コロナ禍では政府がカネをばらまいたことで、市中にカネが余って景気が加熱しているのです。
そこで、日米に金利差があるので円安が続いているという説明がされています。また、日本は金利を大幅に上げないことで「円安を維持している」格好となっています。仮に、円安が行き過ぎて困るという場合には、金利を上げて日米の金利差を縮めて円を高くするという操作が可能は可能でしょう。
ですが、日銀が政策金利を上げれば、国債の金利も上げざるを得ず、そうなると天文学的な利払いが生じます。仮にそうなれば、利払いの激増で国家債務は拡大、そうすると通貨への信認が揺らいで、金利高の中の円安、という破綻国家的なハイパーインフレの構図に突っ込んでしまいます。
円高になれば雲散霧消してしまうインバウンド
3つ目はエネルギー政策です。2011年以降、とにかく原子力発電は世論の逆風にさらされています。ですが、原発の再稼働や更新を進めずに、化石に燃料に頼れば、国際収支を傷つけて通貨は円安に振れます。その結果として、対外収支は悪化し、更に円は下がります。仮に、ここでウクライナ戦争が集結して、原油が下がれば話は別ですが、そう簡単には進まないでしょう。
ということは、日本は苦しくても石油を高値で買い続け、円を流出させなくてはならないことになります。
4つ目は観光産業の問題です。インバウンド旅行客の消費は、ダイレクトにGDPに反映し、実際に巨大なスケールで国内の雇用を支えています。ですから一見すると、国内需要のように見えますが、その正体は外需です。円安だから彼らの購買力は膨張し、旺盛な消費に結びついていますが、円高になればそれは雲散霧消します。
この構造がある限り、そして多くの地域がこのビジネスモデルに依存している中では、簡単には円高に振ることはできません。観光運輸業界全体がコロナ禍の負の遺産を背負っている中で、インバウンド需要が一気に縮小する円高は許容できないわけです。
5つ目の問題は、対日投資の観点です。日本株は、ここ数十年にわたってドル建てあるいは人民元建てのキャッシュによって買われてきました。また、近年は中国資本が国内ポートフォリオの脆弱性を補うために日本の不動産を資産化する動きが拡大しています。こうした株や不動産に関する対日投資については、一つの前提があると考えています。
それは、日本経済が崩壊する前の一瞬の輝きとしての「最後の円高」に賭けているという側面です。いやいや、ドル資金も人民元資金も、円安なのにどんどん日本を買いに来ているではないか、実際の現象面ではそういうことになっています。円安なので買えるし、更に円安になれば更に買える…そんな投資行動が23区内のタワマンをバブル化し、日本株に対して買い向かっています。
ですが、そうしたマネーは日本への恒久投資を考えているのかと言うと、決してそんなことはありません。確かに人民元マネーは、自国の不動産の資産価値が激しく動揺しているので、ポートフォリオの健全性を濃くするために日本に投資している側面はあります。そうではあるのですが、彼らにしても日本経済や日本円が長期的に見て買いだとは思っていないと思います。
米中いずれの投資家も、対日投資の妙味は「二重ボラ」、つまり、株や不動産のボラ(価格変動の激しさ)に、通貨のボラが重なることで、ハイリスクだけれどもハイリターンの投資という理解で突っ込んできているのです。
何が言いたいのかというと、仮に「日本経済最後の輝き」としての円高が起きるとしたら、その前後で一気に対日投資のマネーは引き上げていく可能性があると思います。株の方は、実際に日本の優良株はドル資産、グローバル市場にリンクしているので、叩き売られたりはしない可能性はありますが、少なくとも利食いの売りは相当に来るでしょう。一方で、不動産の場合は、叩き売りになる可能性はあると思います。
問題は、現在このような諸要素によって、簡単には動きが取れなくなっている円という通貨が、この先どうなるかですが、多分、いちばん重要なのは次のような問題だと思います。
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形成すべき財政規律に関する国としての合意
1つは、とにもかくにも、国内の個人金融資産とチャラになる額を超えるレベルに、国家債務が膨張していき、遂に国際市場に対して国債を真剣に売らなくてはならなくなる、このタイミングをできるだけ先延ばしすることです。
このタイミングは、非常に重要で、その瞬間からは日本国債というのは、GDPの200%を超える債務を背負った先進国中最悪の評価を突きつけられます。そうなれば、相当な確率で高金利、つまり低評価となった国債を売り続けることになります。これはそのまま超円安、ハイパーインフレに直結します。
仮に、輸入の化石燃料に大きく依存した状態で、あるいは食糧や資材も大きく海外に依存した状態で、このハイパーインフレと、超円安が発生すると、短期間に国民の生活水準は大きく損なわれてしまいます。ですから、このような破綻をできるだけ先送りすることが大切です。
2つ目は、これ以上の資産や生産設備の海外逃避を抑えるということです。特に大企業、多国籍企業は、加速度的に生産設備など海外投資を増やしています。トランプ時代ということで、どの国も自国の雇用を守るのに必死です。そうなると、日本という自国の人口と購買力に先行き不安のある国、そして改めて外需で経済を建て直さなくてはならない国には不利になります。
そんな中であるからこそ、限られた経営資源、つまりヒト、モノ、カネを国内に再投資してGDPを守っていかねばなりません。モノに関わる貿易であれば、関税戦争で不利になるのであれば、金融やソフトなどの知恵を資産にする、知恵で稼ぐようなモデルも追求すべきです。
第二次大戦前は、不安定化する世界の中で日本を始めとする経済的に脆弱な国からは、資産の対外逃避ということが起きました。現在の日本の場合は、個人レベルの資産の対外逃避は静かにこっそりと進行しているだけで、しかも国税も目を光らせています。一方で、企業が現地生産のために生産設備を海外移転すれば、技術は逃げ、設備投資も雇用も逃げます。この動きを、どう抑制するのかが問われていると思います。
いずれにしても、現在の日本円と日本経済は袋小路に入っています。減税や給付といったバラマキではなく、経済の基盤を再強化するために、具体的な政策の組み立てが必要です。まずは、「日本経済イコール日本発の多国籍企業の連結決算の合計」というエリート層の誤解を壊すことが肝要です。
これでは、GDPはいつまでも拡大せず、グローバルな経済の恩恵を直接受けない産業、地域、ヒトにはカネが回って来ないからです。今こそ、日本経済の、日本円の衰退を止め、破綻を回避し、ドル円を適切な水準で安定させることが大切です。そのためにも、財政規律に関する国としての合意を形成しなくてはなりません。
※本記事は有料メルマガ『冷泉彰彦のプリンストン通信』2025年8月12日号の抜粋です。ご興味をお持ちの方はこの機会に初月無料のお試し購読をどうぞ。今週の論点「張本勲氏が語らなかった被爆体験の痛切」「東京ドームのエキサイトシートを考える」や人気連載「フラッシュバック80」」、読者Q&Aコーナー(アメリカの総務事情)もすぐに読めます。
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- 【Vol.599】冷泉彰彦のプリンストン通信 『円安という袋小路を考える』(8/12)
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