「仕事ができない」という言葉を耳にすることがありますが、その「できない」とは何を指しているのでしょうか?その「曖昧さ」を文筆家の倉下忠憲さんは指摘します。そんな倉下さんは自身のメルマガ『Weekly R-style Magazine ~読む・書く・考えるの探求~』で、曖昧なまま使われると危険な「仕事ができない」という評価の正体を深掘りしています。
仕事ができないとは何か
ビジネス書では「仕事ができる」あるいは「仕事ができない」という表現が出てきます。だとしたら、仕事の現場でもそういう言葉がよく用いられているのかもしれません。
なんとなく雰囲気はわかりますよね。うまく成果を上げられない人のことを指しているんだろうな、と。
個人的な考えですが、こういう「なんとなく雰囲気はわかるので、コミュニケーションが成立しているかのような言葉づかい」が思考においてはもっとも危険です。”わかった気”になっちゃうので。
すぐさま自問しましょう。「仕事ができる人って、何ができる人のことですか?」「仕事ができない人って、何ができない人のことですか?」
健全な思考は、健全な問いに宿る。
ちょっと考えていきましょう。
■できる、できない
Amazonで「仕事ができない」を検索すると、57件の本がヒットします。タイトルにそのまま「仕事ができない」が含まれているものもあれば、そうでないものもあります。そうでないものは、Amazonのアルゴリズムが関係ありと判定したものなのでしょう。
たとえば『「指示通り」ができない人たち』という本があります。これは指示通りにできないことが、”仕事ができない”を意味しているのでしょう。あるいは、『上手に「説明できる人」と「できない人」の習慣』という本もあります。この場合は、”上手に説明できることが仕事ができること”を意味しているのでしょう。
2冊は異なる能力を示していますね。
さらに探してみると『7つの“デキない”を変える “デキる”部下の育て方』という本が出てきます。この本では7つの「デキなさ」が挙げられています。
・デキない1:集中できない
・デキない2:スケジュールを守れない
・デキない3:指示やアドバイスを聞かない
・デキない4:指示待ちで主体的に動かない
・デキない5:ほかの社員らと協力できない
・デキない6:新しいことに挑戦できない
・デキない7:失敗しても反省しない
こうやって挙げていくだけで気分が悪くなってきますが、ひとまずこういう要素が「仕事ができない」であると捉えられているのでしょう。
で、それって本当に「仕事ができない」なのでしょうか。
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■二つの疑問
二つ、疑問があります。一つは、挙げられているすべての要素を満たせる人間なんて存在するのかどうか、ということです。もちろん、上記のような要素が満たされていたら嬉しいのは嬉しいでしょう。でも、それは現実とあまりに乖離した理想かもしれません。
それと関係することですが、もう一つの疑問は、上記のデキなさの多くは、働き手ではなくマネージャーの能力に起因する問題ではないか、ということです。たとえば「指示やアドバイスを聞かない」ですが、聞いてもらえるように言えていない可能性があるでしょう。どんな言い方であっても部下は耳を傾け、受容すべきだという信念はほとんど軍隊のノリです。
むしろ、個々の人をみて、適切にメッセージの表現方法をかえられるのがマネージャーの技能ではないでしょうか。そのような技能不足を検討せずに、「デキない」というレンズを通して現実を見ることは、高すぎる理想を働き手に押しつけていることになります。
そう考えると「仕事ができない」は、それを達成する能力が不足しているという意味で使われていますが、「うまく仕事をさせてもらえていない」(仕事をしたいのに、それができない)という意味が実態に近いのかもしれません。
■具体的にそれぞれ異なる能力
ある人は明るくて、いろいろな人とすぐ仲良くなれるけども、細かい情報処理には向いていない。別の人は寡黙で、人と積極的なコミュニケーションは取れないけども、精緻な数字の管理に向いている。
そういう違いは、ごくふつうに、どこにでも存在しています。でもって、上記で挙げたような目立つ違い以外にも、微細の違いはたくさんあるでしょう。可能であれば、その人が持つ能力のうち、得意に発揮されるものを仕事に活かしてもらいたいものです。
だとしたとき、「仕事ができない」という言葉の乱暴さには唖然とさせられます。そこでは「どんな仕事なのか」がまったく明言されていません。非常に大きく「仕事」という括りが使われています。
たとえば「営業の外回りが苦手」なのかもしれません。「ファイルの整理が苦手」なのかもしれません。「事務作業をコツコツやっていくのが苦手」なのかもしれません。他にも具体的なレベルでさまざまな内容が考えられるでしょう。
そういう具体的な話をまったく無視して「あいつは、仕事ができない」などと評価することの雑さについては、三日くらいはじっくり考えたほうがいいと思います。
仮に仕事ができないとして、どんな仕事ができないのか。そこで「仕事」と呼ばれているものの内実とは何なのか。
その思考を飛ばすマネージングは怠惰でしかありません。
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■良い仕事をしたい
「仕事」という言葉の曖昧さは、別の場面でも問題を引き起こします。
たとえば「良い仕事がしたい」と思ったとしましょう。基本的には立派な心がけだと思います。しかし、その”仕事”が具体的に定義されていなければ、どうやって「良い仕事ができたか」を判定できるでしょう。判定そのものに曖昧さが残り続けます。それはつまり、「もっと~~できたのに」という忸怩たる思いが忍び込んでくるスペースが空いていることを意味します。
多少言葉を変えても同じです。物書きである私が「良い本を書きたい」と考えたとして、その定義が不安定だと、一つひとつの仕事に対して判断を下すことはできません。
・自分が内容に納得できる本
・ものすごく売れた本
・読者さんに楽しんでもらえた本
どのような基準を設けても構いません。ともかく、その実態がどういうものかを具体的にしておくことです。
場合によっては、そうして具体的にしてみたら「これはちょっと盛りすぎだろう」と思うかもしれません。逆に「これらすべてを満たしてやる!」と燃える気持ちになるかもしれません。そうした反応は人それぞれなので、基準をどう設定するのかに正解はありません。
しかし、一段階具体的にすることで、それについて考えやすくなる効果だけは間違いなくあります。今後磨くべきスキルがわかったり、よりいっそう取り組むべき課題が明らかになったりなど、具体的な行動が促進されるのです。
もちろん、仕事を実際にやってみた結果として、「良い仕事」の定義が変わることはありえます。これは自分が求めているものではなかった、とわかるのです。そのときは、改めて定義しなおせばよいのです。
言葉を定義することは、この世界のコードに直接書き込むことでもなければ、基盤に直接焼きつけることでもありません。それは、ソフトウェアなのです。
■さいごに
「仕事」という言葉の曖昧さ(あるいは包括性の高さ)は、日本特有のものなのかどうかはわかりません。しかし、職務ごとの明確なジョブディスクリプションもほぼなく、職場が全員一丸となって業務に取り組む文化では、「仕事」という言葉はどんどん包括的になっていくだろうことは予想できます。
しかし、文化であるならば、変化していけます。
「仕事ができない」と人をくさすのではなく、具体的に困っていること、あるいは得意なことを見て、適切な割り当てを考えていくこと。そして、そうした能力がある人間が、マネージャーとして適切に評価されるようになること。そういう変化を期待します。
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