先日北京で行われた戦勝80周年軍事パレードを前に、習近平国家主席とプーチン大統領、金正恩総書記の3者が語り合ったとされる「150歳まで生きる可能性」という話題。この真意について日本メディアは、独裁者たちの「不老不死への執着」であるかのように伝えましたが、果たしてそれは的を射たものなのでしょうか。今回のメルマガ『富坂聰の「目からうろこの中国解説」』では著者の富坂聰さんが、習主席の発言の背景にある中国国内での権力運営の実態を解説。さらに少子高齢化や中国政府が唱える「銀髪経済」など、隣国の指導者が直面する現実的課題についても考察しています。
※本記事のタイトル・見出しはMAG2NEWS編集部によるものです/原題:「150歳まで生きる可能性」に触れた習近平の意図は、本当に不老不死への執着か
本当に「不老不死」への執着なのか。習近平が「150歳まで生きる可能性」を口にした意図
9月3日の「中国人民抗日戦争ならびに世界反ファシズム戦争勝利80周年記念行事」(以下、「戦勝80周年」)の裏側で大きな注目を浴びたのは、中国の習近平国家主席とロシアのプーチン大統領、北朝鮮の金正恩朝鮮労働党総書記が、天安門の軍事パレードを前に、150歳まで生きる可能性について話す会話が、マイクで拾われてしまうというエピソードだ。
日本のメディアは早速、これを独裁者の権力維持の野心と結び付けて報じた。西側社会で「独裁者」と呼ばれる3人は、寿命の続く限り権力の座にとどまりたいという野心を持っている。そんなイメージ先行の報道だった。
だが、この手の話題は往々にして根拠薄弱で、為にする話の場合が多い。
この間まで熱心に「重病説」を書いていたメディアが、今度は「不老不死」の可能性に言及しているのだから、場当たり的、ご都合主義と批判されても仕方がない。
中国でこの話題に触れてみても、習近平が自分のために「150歳まで生きる可能性に触れた」と解釈した人は、私の知る限り一人もなかった。
理由は至って簡単。非現実的だからだ。
たとえ150歳まで生きられるようになったとしても、ずっと君臨し続けられる保証などどこにもない。途中で権力の座から転がり落ちるようなことがあれば、その末路は悲惨だ。
権力にしがみつこうとしたリーダーは、洋の東西を問わず最後は打倒され、否定されるのが相場だ。むしろ、きちんとレールを敷いて権力を委譲した方がよほど力を維持できる。
そもそも溌溂とした現在の習近平にさえ多種多様の「失脚説」がささやかれ続けてきた。それを報じてきた日本のメディアならば、半永久支配が現実に可能かどうかは自明のことだろう。
では、翻って何が現実的な解釈なのか。
おそらく人間の寿命が延びることで発生する政治的課題が話題の中心だったのではないか。
こんなことを書けば「きれいごと」と批判されそうだが、そうではない。
というのも中国の指導者にとって人民をきちんと食べさせることは、根本的な責務であり、それができなければ即ち政治的な死を意味するからだ。
かつて江沢民元国家主席(故人)はこんな言葉を残したとされる。
アメリカの大統領はいい。いくら失政を重ねても、最後には「私を選んだのはあなたたちだ」ということができる。
大きな権力には大きな責任と代償がともなうということだ。
この記事の著者・富坂聰さんのメルマガ









