SNS上に飛び交う、海外にルーツを持つ人々への誹謗中傷。その発信者は「純日本人」という概念に異常な執着を見せますが、はたしてその「純日本人」とは何をもって定義されるものなのでしょうか。今回のメルマガ『上杉隆の「ニッポンの問題点」』ではジャーナリストの上杉隆さんが、上皇様が天皇陛下として平成13年に述べられたおことばを引きながら、「日本人論」を展開。その上で、排除ではなく多様性を力に変える社会の在り方を提起しています。
※本記事のタイトルはMAG2NEWS編集部によるものです/原題:【日本人再論】「純日本人」という幻想を超えて~天皇陛下のお言葉の意味
日本人のほとんどが混血の末裔。それでも消えない「純日本人」という幻想
今週の『NoBorder NEWS』の生放送、ある弁護士の言葉が心に刺さった。
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「日本で生まれ、日本で育ち、日本語しか話せない。親も祖父母も日本で生まれた。それなのに『国に帰れ』と言われる。どこに帰れというのか」
桜井ヤスノリ弁護士――彼の言葉には、言いようのない重さがあった。土曜日の放映の『NoBorder』本編では不法移民問題を議論していたが、彼が外国人の子どもたちを守ろうと主張したとき、SNSには誹謗中傷の嵐が吹き荒れた。「お前は純日本人ではない」「反日だ」「国へ帰れ」――数千を超えるコメントが彼とその家族を襲った。
だが、ちょっと待ってほしい。そもそも「純日本人」とは何なのか。
日本人のルーツを辿れば
歴史を紐解けば、日本列島に住む人々は決して単一民族ではない。約1万6,000年前から続いた縄文時代、この列島には世界的にも異例の平和な時代を築いた縄文人が暮らしてきた。そこへ約3,000年前、朝鮮半島から稲作文化とともに渡来人がやってきた。彼らが縄文人と混血して生まれたのが弥生人と弥生文化である。
最新のゲノム解析によれば、現代日本人のDNAには縄文人由来が10~20%、渡来系弥生人由来が80~90%含まれているという。つまり、私たち日本人の大半は「渡来人の子孫」なのである。
古墳時代以降も、朝鮮半島から多くの技術者集団が渡来し、日本の文化と技術の基盤を築いた。漢字も、仏教も、様々な工芸技術も、彼ら渡来人がもたらしたものだ。さらに遡れば、縄文人自体が東南アジアやシベリアから来た人々の末裔である。
にもかかわらず、なぜ多くの者は「純日本人」などという幻想にしがみつくのか。
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天皇陛下が語られた「ゆかり」
2001年12月23日、日韓共催サッカーワールドカップを翌年に控えた直前の天皇陛下(現上皇)が、誕生日会見で述べられた言葉を鮮明に覚えている。ニューヨークタイムズ取材記者(フリー契約後)として取材していた筆者は、日本で天皇の言葉を割愛するというメディアの「不敬」もあり、しっかりと記憶に残っている。少し長くなるが、さらなる憶測を呼んで、誹謗中傷が広がらないためにも陛下の直接のおことばをそのまま掲載しておこう。
日本と韓国との人々の間には、古くから深い交流があったことは、日本書紀などに詳しく記されています。韓国から移住した人々や、招へいされた人々によって、様々な文化や技術が伝えられました。宮内庁楽部の楽師の中には、当時の移住者の子孫で、代々楽師を務め、今も折々に雅楽を演奏している人があります。こうした文化や技術が、日本の人々の熱意と韓国の人々の友好的態度によって日本にもたらされたことは、幸いなことだったと思います。日本のその後の発展に、大きく寄与したことと思っています。私自身としては、桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると、続日本紀に記されていることに、韓国とのゆかりを感じています。武寧王は日本との関係が深く、この時以来、日本に五経博士が代々招へいされるようになりました。また、武寧王の子、聖明王は、日本に仏教を伝えたことで知られております。
この発言は、海外で大きな反響を呼んだ(前述したように日本ではメディアがこの部分を割愛したためほとんど知られていない)。天皇家と朝鮮半島の歴史的つながりを、陛下ご自身が公の場で語られたのだ。それは、日本の最も象徴的な存在が、「純日本人」という幻想を静かに否定した瞬間でもあった。
1,200年以上前、朝鮮半島からの渡来人の血が皇室に流れている――この歴史的事実を、SNSなどで誹謗中傷を繰り返す者たちはどう受け止めるべきか。天皇家でさえ多様なルーツを持つと自ら宣言しているのに、なぜ一般の人々が「純日本人」にこだわる必要があるのだろうか。それこそ不敬に他ならない。
「在日」という言葉の暴力性
「在日」――現代日本では、この言葉がいつの間にか差別の符牒になってしまっている。本来は単に「日本に在住する」という意味のはずが、特定のルーツを持つ人々を排除する言葉として使われているのだ。
不思議なことに、在日アメリカ人や在日フランス人、在日イギリス人に対して、同じような差別的態度は示されない。むしろ「国際的」「グローバル」と好意的に受け止められることさえある。なぜアジア系(中東・アフリカ系なども)のルーツを持つ人々を中心に、こうした冷たい視線が向けられるのか。
背景の一端には、日本の戦前・戦中の歴史と戦後処理の不完全さがあるといえるだろう。1910年の韓国併合から1945年の敗戦まで、朝鮮半島は日本の植民地だった。多くの朝鮮人が労働力として日本に渡り、日本で生活し、日本で新しい家族を持ち、日本で人生を終えた者もいる。敗戦後、サンフランシスコ講和条約などにより、彼らの一部は日本国籍を剥奪され「外国人」とされた歴史もあった。これは一例にすぎないが、避けられない事情で「在日」となっている日本人も少なくない。
三世代、四世代と日本で生きてきた人々が、「在日」とされて差別の対象にされてしまう。この歴史的不正義を、私たちは正面から向き合ってきたかといえば疑わしいのではないだろうか。
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日本の文化を支えているのは誰か
皮肉なことに、日本の芸能界、スポーツ界、ビジネス界は、いわゆる「帰化日本人」や外国ルーツを持つ人々の活躍なくして成り立たない。
たとえば、プロ野球には在日コリアンの選手が数多くいたし、いまも少なくない。国技である大相撲でもモンゴル出身力士が席巻しているし、かつては朝鮮出身、中国出身、米国出身(ハワイ州)の関取が少なくなかった。音楽界、芸能界には多様なルーツを持つスターたちがいるし、とくに在日朝鮮人の存在なくして現在のテレビ業界は成立しえない。IT業界やスタートアップの世界でも、外国人起業家や技術者によって日本経済が支えられている。
K-POPの世界的な成功に憧れる日本の若者たちは、その背後に在日コリアンの音楽プロデューサーたちの貢献があることを知らないのかもしれない。日本の音楽シーンを切り開いたアーティストたちの中には、朝鮮や中国を筆頭に多様なバックグラウンドを持つ人々がたくさんいる。
つまり、私たちの誇る「日本文化」は、実は多様なルーツを持つ人々が織りなす、極彩色のタペストリーなのだ。
ジャーナリストとして問う
この問題を看過できないのは、ジャーナリストとしての使命感からということもある。「自ら選択のできない境遇に対する差別は決して許されるべきではない」。これは、ニューヨークタイムズ時代に学んだジャーナリズムの鉄則のひとつである。取材に差別を持ち込んでいけないのは当然のこと、そうした差別については、是正のための報道を躊躇すべきではないと徹底的に教え込まれた。
桜井弁護士は番組で「日本に住む全ての外国人の小さな子どもたちを守りに来た」と語った。それに対し「なぜ日本人の子どもを優先しないのか」という批判が殺到した。だがそもそも、子どもの人権に国籍による優先順位をつけること自体が許されていいとは思わない。
弁護士である彼は、法の下の平等という憲法の理念を実践しただけだろう。彼に対するSNS上の誹謗中傷では、櫻井氏は日本人よりも外国人を優遇していると批判を受けているが、彼はそんなことは言っていない。それを「反日」と罵る方こそ、日本国憲法の精神を理解していないのではないか。
民主主義社会において、ジャーナリズムの役割は多様な声を届けることだ。心地よい意見だけを聞いていては、社会の問題は見えてこない。だからこそNoBorderは、異なる意見を持つゲストを招き、時に激しい議論を展開している。
問い直すべきは私たち自身
「純日本人」という概念は、科学的にも歴史的にも幻想である。
私たちは皆、混血の末裔であり、多様なルーツを持つ人々が作り上げた文化の中で生きている。天皇陛下でさえ、朝鮮半島との「ゆかり」を感じていると公言された。にもかかわらず、特定のルーツを持つ日本人を排除しようとする。その矛盾に、私たちはもっと敏感であるべきだ。
日本で生まれ、日本で育ち、日本語で考え、日本の文化を愛し、日本のために働いている――それでもなお「お前は日本人ではない」と言われる人々がいる。この理不尽を放置することは、結局のところ私たち自身の社会を貧しくする。
多様性は弱さではない。強さだ。異なる背景を持つ人々が共に生きる社会こそが、より豊かで、より創造的で、より強靱な社会を作る。ただ、日本にいる「日本人」と「外国人」の区別は当然にあってしかるべきだと思う。現代における無条件な移民政策は、国の弱体化をもたらす危険性をはらんでいる。それは海外の事例をみれば明らかだ。だが、日本人同士での「区別」は差別であり、断じて許されるべきものではない。その問題点の整理ができている者は果たしてどれほどいるのだろうか?
日本人であることの意味
果たして、日本人であるとは、どういうことか。
それは血統の問題ではない。この国で生まれ、この国を選び、この国の言葉を話し、この国の未来を共に作ろうとする意志を持つ者――それこそが「日本人」といえるのではないのか。
桜井弁護士は番組で、応援してくれる少数の人々のためにも発信を続けると語った。その言葉に共感する。
果たして、目指すべき社会は、排除の論理で成り立つ閉じた社会なのか、それとも多様性を力に変える開かれた社会なのか。正直なところ難しい問題だ。だからこそ、可能性を排して、双方の意見をぶつける必要がある。
「日本人再論」――それは過去を見つめ直し、未来を選び取る作業だ。今こそ、私たち一人ひとりが、自分自身の中にある偏見と向き合う時ではないだろうか。
(『上杉隆の「ニッポンの問題点」』2025年10月30日号より。ご興味を持たれた方はご登録の上お楽しみ下さい。初月無料です)
※本コラムは個人の見解であり、特定の個人や団体を擁護・非難す
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