敵兵にも義足を送った、明治天皇の皇后「昭憲皇太后」の慈悲心

 

包帯製作とお見舞い

皇太后は明治20(1887)年の東京慈恵医院開院の際に、病院事業奨励の令旨をくだされ、その中で、天平年間に聖武天皇の皇后であった光明皇后が、貧しくて治療を受けることのできない民のために施薬院を設けた逸事に言及し、「祖宗の遺志」を継ぐべきことを念願されている。明治時代の社会福祉への取り組みは、そのまま1,000年以上も続く皇室伝統の実践であった。

皇太后の窮民への仁慈は御下賜金だけには留まらなかった。明治10(1877)年の西南戦争では、お手づからガーゼを作られ、大阪と戦地の病院に送られた。明治27(1894)年の日清戦争では、包帯の製作をされた。宮中の一室に製作所を設けられ、近侍の女官たちとともに、看護婦さながらに白衣を召されて包帯製作に励まれた。

明治37(1904)、38年の日露戦争でも包帯製作に勤しまれ、皇太子妃殿下(大正天皇のお后、貞明皇后)とともに、包帯12巻入りの缶を200缶も戦地に送られた。兵士の中には、その包帯を使わずに持ち帰って家宝にした者もいた。

日清戦争さなかの明治28(1895)年3月、皇太后は明治天皇が大本営をかまえられた広島にお出ましになり、広島陸軍病院と呉の海軍病院を慰問された。

これらの病院は開戦後、にわか仕立てで作られた掘っ立て小屋のような建物で、関係者はこのような粗末な場所に皇太后がお越しにになるのは恐れ多いと辞退したが、皇太后は「患者慰問のために来たのですから、どんなに建物が見苦しくても見舞いに行きます」と押しきられた。

各病室では患者それぞれに病状をお聞きになり、御言葉を賜った。起き上がって姿勢を正そうとする兵士たちには、「起きるに及ばず。大事にせよ」と仰った。今日の両陛下の被災者御慰問そのままの光景である。また戦争で手や足を失った兵士には、義手や義足を下賜された。その御仁慈は手足を失った敵兵にも及んだ

皇室の率先垂範が国民を動かした

社会福祉の精神を日本の社会に根付かせた」と冒頭のバウマンは語ったが、皇太后は国民に直接語りかける事でも、その役割を果たされた。

皇太后は明治35(1902)年10月21日、日本赤十字社第11回総会に行啓し、御言葉を述べられた。会場は皇后陛下を間近にうかがおうとする人々で超満員だった。出席した英国公使夫人メアリー・フレイザーは、皇太后が「いかに人心を惹きつけられるか」を目の当たりにしたとして、こう書き留めている。

皇后陛下は、大いなる興奮と尊敬に満ちた沈黙のなかを、書類をたずさえてすすまれ、はっきりとした声でその内容をお読みになりました。それはほんとうに驚くべきこと…これまで私が日本で見たもっとも現代的な光景でした。
(『英国公使夫人の見た明治日本』メアリー・フレイザー・著/淡交社)

「現代的」というのは、それまでの歴代皇后は内裏(だいり)に引きこもって人目には触れずに生活されていたからである。昭憲皇太后は皇后として初めて洋服を着られ、このように多数の国民の前で御言葉を述べられたのであった。

前述のメッシーナ地震に際しては、両陛下はイタリア政府に金1万円を寄贈されたが、民間でも「伊国震災義捐(ぎえん)金」が集められ、寄付金の総額は7万1,700円に達した。皇室の率先垂範が「社会福祉の精神を日本の社会に根付かせた」一例である。

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