温故せぬ国に知新なし。大切な「古典教育」を見下す文科省の愚

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「ゆとり教育」「総合学習」と、学校教育に次々と新しい試みを導入してきた文科省。しかしそれらの取り組みの成果は、当初の予想とかけ離れたものになっていると言わざるを得ません。今回の無料メルマガ『Japan on the Globe-国際派日本人養成講座』では、その文科省が新たに実施する「アクティブ・ラーニング」の問題点を明らかにしながら、現代の教育で隅に追いやられがちな「古典教育」の大切さについて、著者の伊勢雅臣さんが力説しています。

古典教育が国家を発展させるという逆説

文科省はゆとり教育総合学習の反省もないまままた新しい事を始めようとしている」というのが、文科省の「学習指導要領改訂の方向性について」の説明ビデオを見た感想である。

その説明パネルでは、「他者と協働しながら、価値の創造に挑み、未来を切り拓いていく力が必要」などと、立派な理念が抽象的な言葉で語られているが、そこに決定的に欠けているのが現状の事実分析である。今の教育で何が出来て、何が出来ていないのか、という事実の把握と分析がない。

実業の世界では、仕事の基本はPlan-Do-Check-Actionのサイクルである、と良く言われる。計画(Plan)を立て、実行(Do)した後で、その結果をチェック(Check)し、必要な修正アクション(Action)をとる。このPDCAサイクルの要がCheckである。Plan-Doの後、反省もせずに、次のPlan-Doに行くのは「プランプランのドードー巡り」だと、からかわれる。

日本の教育行政は、1980年代からの「ゆとり教育」、2000年代からの「総合学習」と、どう見ても成功したとは見えない施策をとってきた。その評価反省もなく、今回2020年から実施する新しい学習指導要領でアクティブ・ラーニングを柱に進めるというが、今回もCheckもActionもない「プランプランのドードー巡り」を繰り返しているのではないか。

「こんにゃくの作り方」

新しい学習指導要領の目玉とされる「アクティブ・ラーニング」とは「課題の発見・解決に向けた主体的・協働的な学び」と定義されているが、教育学者の齋藤孝・明治大学文学部教授はその実施例を見学して、こう述べている。

私が実際見学した例でも、小学校において、「こんにゃくの作り方」というテーマで1時間生徒に話し合わせる授業があった。一見、熱心に話し合っているようには見えたが、生徒たちはそれぞれ自分の言いたいことを言うだけで、的確な根拠に基づいて思考し、判断し、次の課題にいくという過程は見られなかった。そして、それを教師や他の生徒が「評価しよう」とする場面もなかった。
(『新しい学力』齋藤孝・著/岩波書店)

「的確な根拠に基づいて思考し、判断し、次の課題にいくという過程」とは、上述のPDCAサイクルと同じである。言いたいことを言うだけで、その評価反省がないのでは進歩はない。教育現場も文科省官僚と同じ過ちを犯すだけだ。

教育現場の事実を知らない文部官僚が、机上で作成した理念を教育現場に押しつけ、教師がそれに右往左往し、子供たちもわけがわからないままに貴重な授業時間が過ぎ去っていく、そんな光景が目に見えるようだ。

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