朝鮮王朝に嫁いだ皇族。韓国障害児の母、李方子妃物語

jog20170315
 

先日掲載の記事「敵兵にも義足を送った、明治天皇の皇后「昭憲皇太后」の慈悲心」で、明治天皇のお后であった昭憲皇太后が社会福祉に尽力された感動エピソードをご紹介しましたが、今回の無料メルマガ『Japan on the Globe-国際派日本人養成講座』では、日本皇族でありながら朝鮮王朝に嫁いだ梨本宮方子女王こと「李方子妃」の波乱の半生と、韓国障害児教育に捧げた晩年のお姿が紹介されています。日韓の架け橋として生きた87年の生涯とは…。

日韓の架け橋・李方子妃~日本皇族から、朝鮮王朝最後の皇太子妃、そして韓国障害児の母へ

大正5(1916)年8月3日朝、大磯の別邸で夏を過ごしていた梨本宮方子(なしもとのみや・まさこ)は、いつものように新聞を拡げると「あっ」と声をあげて、両手をわなわなと震わせた。

李王世子の御慶事―梨本宮方子女王とご婚約

という大見出しとともに、まぎれもなく自分の袴姿の写真が掲載されている。隣には、李王世子、すなわち大韓帝国皇太子・垠(ウン)殿下の写真が並んでいる。

東京に帰った方子妃は、父守正王から正式に婚約を告げられ、次のようにきっぱりと答えた。

よくわかりました。大変なお役だとは思いますが、ご両親様のお考えのように努力してみます。

母・伊都子妃は、わずか15歳の娘の毅然たる態度に、言葉もなくただ涙された。この時から日韓の狭間で波乱の人生が始まるのだが、方子妃はまさにこの毅然たる覚悟通りに、日韓の架け橋としての役目を果たし続ける。

2学期が始まると、学習院では「皇太子妃におなりになるでも朝鮮のお方がお相手ではね」と学友達はささやきあっていた。そこに方子妃が髪を中心から分けて結う韓国式の髪型で昂然と胸を張って登校してきた。みなはその覚悟の見事さに感心した。

韓国併合

皇太子垠は明治40(1907)年、11歳にして日本に留学した。この2年前に、日露戦争に勝利した日本は、大韓帝国を保護国としていた。朝鮮半島の不安定が日清、日露両戦役を引き起こしていただけに、英米両国はこの措置を歓迎した。

大韓帝国側から見れば、垠を人質に取られた格好だったが、わが国は朝野をあげて歓迎しすべて日本皇太子と同等の扱いをした。特に明治天皇、皇后は垠を可愛がられ、よく御所に召されて、贈り物を与えられた。太子大師(皇太子の主任教師)に任命されていた伊藤博文が、「垠のためにならないから」と断っても、両陛下はやめられなかった。伊藤自身も孫のように垠を慈しみ、安重根に暗殺された後、垠はよく伊藤公が生きておられたら」と語っていた。

明治42(1909)年7月6日、韓国併合が閣議決定された。アメリカ政府は「むしろ米国のためにこれを歓迎す」とし、イギリス、ロシア、ドイツ、フランス各国政府もこれを了承した。

後の首相・原敬は「今日決行するの必要ありや否や疑はし」と評し、小説家・有島武郎は「この日、朝鮮民族の心情やいかんと涙する」と記している。

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