死者と生者がむつみあうようなのどかさ
「大いなる和の国」に住むのは、生者ばかりではない。中国から来て、滞在17年にもなる作家・毛丹青はこんな美しい光景を見た。
中国では人が亡くなると町の外に埋葬しに行きます。北京で有名なのは八宝山ですが、市内からかなり離れていますね。ところが日本では墓地が街の至る所にある。もっと不思議なのは、お寺の裏に墓地があって、隣に幼稚園があったりするんです。
黄昏の夕日が墓地に射して、その美しい光の中で幼稚園の子どもたちが鬼ごっこをして夢中で遊んでいる。僕はそういう情景を何度も見ました。死者と生者がむつみあうようなのどかさ。亡くなった人たちは子どもたちの無邪気に遊ぶ姿を見て幸せだったんじゃないか、そこには死者と生者の会話があったんじゃないか、と思いましたね。現代の中国ではありえない光景です。子どもの時からそういう体験をすると、死生観や生命に対する考え方が違ってくるでしょうね。
インドで生まれた仏教では、魂は他の人間か動物かに生まれ変わる「輪廻転生」を続けるか、解脱をして浄土に行ってしまう。家としての血のつながりを重視する中国では、そんな個人主義的な死生観は受けつけられず、一族の長の家に宗廟という建物を建て、そこで先祖祭祀を行った。
それが日本に入ると、死者と生者の関係はさらに近いものとなり、各家に仏壇を置く、という日本独自の習慣となった。日本のご先祖様は子孫を見捨てて、勝手に西方浄土に行ってしまったりしない。いつも「草場の陰」で子孫を温かく見守ってくれているのだ。
だから、お寺の墓地の隣に幼稚園があるのも、ごく自然なのである。死者を身近に感ずる所から、その気持ちを裏切っては「ご先祖様に申し訳ない」という感覚が出てくる。
我が国には創業100年以上の老舗企業が10万社以上あるという、世界でも群を抜く「老舗企業大国」であるのも、こういう死生観からであろう[。「大いなる和の国」では、死者と生者が睦み合って、幸せに繁栄しているのである。
「全体がひとつの大きな家族のような場所」
冒頭に登場したアメリカからの老夫婦は、「少年の犯罪率が高くなった」などと語る加藤恭子氏に、こう答えた。
率のことはわからないわ。だけど私たちは日本にくると、全体がひとつの大きな家族のような場所に来たと感じるの。
路上には、異様な風体の少年少女たとがすわりこんでいる。加藤さんは眼で彼らを示しながら、「あの若者たちも、『家族』の一員なの?」と訊ねた。
そう、ちょっと異分子かもしれないけれど、彼らも一員よ。「私は見守っていますよ」というような大きなジャスチャーは日本人はしない。でも、それぞれがさり気なく見ているの。家族って、そうでしょ。その安心感があるから、彼らも地面にすわっているのよ。
確かに、地面に座っている子どもたちが、強盗に襲われたり、暴力を振るわれたりする社会なら、彼らもこんな真似はできない。
「大いなる和の国」とは、ひとつの家族のように、互いの自由を尊重しながら、必要な時に支え合ったり、その恩返しをしたりする共同体である。