【書評】寄らば大樹の陰。朝鮮内部抗争に振り回された日本の歴史

 

内部抗争から始まった朝鮮戦争

日本の降伏後、米ソは38度線を境にして、それぞれ南北を占領した。米ソ英は5年間の信託統治期間の後、朝鮮の独立と統一政権の樹立を図るというモスクワ協定」を結んだが、肝心の韓民族自身が、例の如く内部闘争に明け暮れて、統一政権どころではなかった。

結局、ソ連を背景とした金日成と、アメリカから戻った李承晩が、それぞれ北朝鮮と韓国の政権を樹立した。それだけでなく、彼等は、それぞれ相手国を打倒して、自らが朝鮮の統一政権になることを目指していた。

最初に仕掛けたのは金日成だった。当時は日本の産業施設が多く残っていた北朝鮮の方が、農業中心の韓国よりも、圧倒的に国力は上だった。金日成はソ連のスターリンに南進の許可を求めた。邪悪な政略の天才スターリンは、もしアメリカとの戦争になったら、中国を矢面に立たせようと、毛沢東の支援を得るよう指示した。

中華人民共和国を建国したばかりの毛沢東は慎重で、38度線を越えてアメリカが攻め込んできたら、自国の国境が脅かされるので参戦をする、と消極的な支持を表明した。これをもとに、北朝鮮は1950年6月25日、38度線を越えて、韓国内に侵攻した。

3ヶ月で済んでいたはずの朝鮮戦争が…

北朝鮮は2ヶ月後の8月末には南朝鮮の90%以上の領土を占拠したが、ここで米軍を中心とした国連軍が救援に入り、わずか1ヶ月でソウルを奪還した。米軍もも国連軍も、38度線まで奪還すれば、そこで戦闘を止める計画だった。その通りに事が運んでいたら、朝鮮戦争は3ヶ月で停戦を迎えていたはずだった。

しかし、ここで李承晩は一気に北朝鮮を打倒して統一政府を作ろうと、韓国軍に38度線を突破させた。これに引きずられる形で、国連軍も38度線を越えて進撃し、ついには中国国境沿いにまで近づいた。ここで毛沢東はやむなく中国共産党軍を投入したのである。

こうして米中の激突となった朝鮮戦争はさらに2年9ヶ月以上も続き、結局、38度線の振り出しに戻って、停戦を迎えた。金日成なくば、そもそも朝鮮戦争は起こらずに済んだかも知れないし、李承晩がいなければ、3ヶ月で終わってその後の600万の犠牲者の大部分は失われずに済んだろう。

結局、韓民族の内部抗争と外部勢力の引きずり込みという伝統的な宿痾で、米中ともに何の益もない戦争に巻き込まれたのである。

活用し損ねた歴史の叡知

こうして朝鮮半島の歴史を通観して見ると、日清日露朝鮮戦争という3つの戦争とも、同じ構造をしていることが明らかになる。韓民族が内部抗争に勝つためにそれぞれ周辺諸国を戦争に引きずり込むというパターンである。

通常の民族のように、韓民族が一つにまとまって独立統一国家を作っていれば、中国、ロシア、日本の緩衝地帯となり、東アジアの平和が保たれていた可能性もある。そう考えると、韓民族は東アジアのトラブルメーカー」だ、という石平氏の指摘は説得力を持つ。

韓民族が内部抗争という宿痾を自ら克服できないなら、今のように南北でせめぎ合い、結果として日米中ソの緩衝地帯になっている方が良い、というのは、冷酷な地政学的戦略から言えば、合理性がある。米中とも、現在はその戦略をとっているのだろう。だから、北朝鮮で膨大な餓死者が出ようと、各国は手は出さないのである。これが冷厳な国際社会の実態である。

「半島とは一定の距離をおいて、韓民族内部の紛争にできるだけ関与しないようにするのが、もっとも賢明な道」とは石平氏の結論であるが、この本で半島の歴史を丹念に辿ってみれば、頷くしかない結論である。

この結論は、日清戦争前に金玉均が残忍な方法で処刑された後、彼を支援していた福沢諭吉が『脱亜論』で「我れは心に於て亜細亜東方の悪友を謝絶するものなり」と語ったのと同じである。この叡知を当時から活用していれば、我が国の近代史もまた別の形になったであろう。我々は歴史の叡知を活用し損ねたようだ。

文責:伊勢雅臣

image by: Shutterstock

 

Japan on the Globe-国際派日本人養成講座
著者/伊勢雅臣
購読者数4万3千人、創刊18年のメールマガジン『Japan On the Globe 国際派日本人養成講座』発行者。国際社会で日本を背負って活躍できる人材の育成を目指す。
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