【書評】寄らば大樹の陰。朝鮮内部抗争に振り回された日本の歴史

 

政府側とクーデター側がそれぞれが外国軍を引き込んだ

日清戦争の発端は、朝鮮王朝の第26代国王・高宗の実父・大院君と、王妃・閔妃(びんひ)一派の抗争だった。閔妃一派は、1873年に大院君を失脚させ、日本と日朝修好条約を結んで、近代化路線をとった。その一環として、日本から軍事教官を招いて軍の近代化を図った

これに不満を抱いた旧式軍の軍人たちが、1882年、閔妃一族の高官の屋敷を襲った後、大院君の許に逃げ込んで、助けを求めた。大院君は、これを権力奪回のチャンスと見て、閔妃一族の殺害、日本公使館と日本人教官の襲撃を命じた。彼等はその指示通り、日本人13人を虐殺した。

閔妃は宮殿から逃げ出したが、高宗に密書を送って、起死回生の秘策を授ける。それは密使を清国に送って、軍勢を派遣して貰うよう依頼することだった。それに応えて、清は3,000人を朝鮮半島に送り込み、反乱を起こした韓国軍兵士たちを鎮圧した。

これを機に、清国は3,000人の軍勢をそのまま半島に駐留させ、朝鮮を完全な属国とした。大院君は捕らえられ、清国に拉致された。

この状況に反発したのが、金玉均(きんぎょくきん)率いる若手官僚グループであった。金玉均は日本とのパイプを持ち、漢城(現在のソウル)に駐留していた日本軍の力を借りて閔氏一族を一掃し、高宗を担いで政権を掌握しようとした。当時、多数の邦人を殺された日本は、邦人保護のために、朝鮮政府の許可を得て、数百人規模の兵力を漢城に置いていたのである。

金玉均が、日本の明治維新をお手本として朝鮮の近代化を目指し、日・中・朝鮮の3国の同盟でアジアの衰運を挽回すべきという「三和主義」は、福沢諭吉など日本の朝野の支持を集めていた。

金玉均ら50名は日本軍150名とともに、1884年にクーデターを起こし、一時は新政府樹立を宣言したが、清国軍1,500人と朝鮮政府軍の反撃で、衆寡敵せず、わずか3日で鎮圧された。金玉均は日本公使・竹添進一郎とともに海路日本に脱出したが、約30人の日本人が殺害され、さらに多くの朝鮮人が処刑された。

日本を清国と戦わせて独立を宣言

1889年、「東学党の乱」と呼ばれる農民一揆が起こり、1894年には数万人規模となった農民軍が一地方を占拠した。朝鮮政府は、東学党鎮圧のための出兵を清国政府に要請した。清国は2隻の軍艦を仁川に派遣し、2,800人の兵を上陸させた。

これに対抗して、日本は公使館と居留邦人保護という名目で約6,000人を派兵した。10年前の乱の際に、日本は清国と「天津条約」を結び、どちらかが朝鮮に派兵した際には、通告すると約束していたのである。

石平氏は、こう語る。

近代朝鮮が自立した独立国家として、南下する大陸国家との緩衝地帯になってくれず、清国の大軍を半島に招き入れて植民地支配を受け入れたことが、日本の安全保障に重大な脅威を与えていた以上、日本はもはや戦わざるを得なかった。
(『韓民族こそ歴史の加害者である』 p156)

7月23日、大鳥公使は、清国から送還されて謹慎中だった大院君を擁立し、その命を受ける形で日本軍は王宮を占拠し親清派の閔氏勢力を一掃した。ここに日清戦争が始まったのである。

機を見るに敏な高宗は、1895年1月、まだ日本軍が清国と戦っている最中にも関わらず、世子や王族・各大臣を引き連れて、清国との宗族関係を破棄したとする独立誓告文を宗廟に奉告し、全国に宣布した。戦い続けている日本と清国こそ、いい面の皮である。

日清戦争に勝利した日本は、清国と日清講和条約(下関条約)を結ぶが、その第一条は「清国は朝鮮国が完全無欠なる独立自主の国であることを確認し、独立自主を損害するような朝鮮国から清国に対する貢・献上・典礼等は永遠に廃止する」となっている。

まさに朝鮮は日本の力によって、「自主独立の地位を得たのである。

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