台湾人が提示する、中国が台湾を「日本の一部」と見なしていた証拠

 

このころの日台交流でよく知られているのは、文禄2(1593)年に豊臣秀吉が使者を台湾へ送ったことである。秀吉は、「高山国王」に入貢服従を促す内容の国書を原田孫七郎に託した。孫七郎は、豊臣秀吉にフィリピン遠征を提案したことでも知られている長崎貿易商人・パウロ原田喜右衛門の手代であった。

しかし、この秀吉の目的は達成されなかった。なぜなら、当時の台湾には主権者たる国王がおらず、各地方の代表者といえば各集落の首長であり、国書の受け渡しなどできる状態ではなかったため、入貢のことまで話をすることができなかったからだ。

それでも日本政府は台湾との接触を試み続けた。それを裏付ける二つの記録が残っている。ひとつは、山田長政がシャムへ行く途中に一時台湾に停留していたという記録。もうひとつは、泉州堺の商人・納屋助左衛門(呂宋助左衛門)が文禄3年に台湾で奇利を博し、日本に帰って秀吉に謁見して珍品を献じたという話が「三才図会」にある。

また、秀吉の逆鱗に触れた助左衛門は、「桜丸」号にて琉球へ逃れ、慶長元(1596)年に台湾の淡水に寄港したという記録が残っている。さらに彼には、慶長16年にはシャムへ渡るため、台湾内を探険したという記録もある。

江戸時代に入った慶長13年、徳川家康は日本に漂着した台湾のアミ族を駿河で引見した。このことは、『パンチア国人と今』という書物に記録されている。台湾に興味を持った家康は、その翌年、有馬晴信に台湾探険を命じる。

家康の命を受けた有馬晴信は、部下を台湾に送ってまずは視察をし、原住民を撫順してから通商を試みたが、結果は失敗に終わる。元和元(1615)年、今度は長崎代官・村山等安が高山国の朱印状を得ることができた。村山は人を集めて台湾へ渡り、日本との貿易と入貢を求め、ひそかに台湾占有を狙ったのだが、有力な後援を得られずにこれまた失敗した。

先に述べたように、その後の1624年以降、台湾南部はオランダ人に領有され、1626年以降、台湾北部はスペイン人に16年間も領有される。

オランダ人は1643年、ボーン大尉を隊長とした東台湾探索を行っている。目的は金鉱脈探しであり、探索隊は台南の安平から出発して北回りに淡水、基隆を訪れた。このときの金鉱情報提供者のなかに、伴天連(カトリック宣教師)らしい人物であるハシント・九左衛門という日本人の名前が出ている。

オランダ人の記録によれば、日本の朱印船が南海で活躍していた時代、朱印船は基隆、淡水、安平、高雄も訪れており、各港には日本人街ができていたらしい。

倭寇時代から、オランダ人が台湾を領有した時代までの日台関係は、人的ではなく物的な関係が主流であった。八幡大菩薩の幟を掲げていた八幡船や御朱印船は、甲冑、刀剣、塩、漆器、扇子、生活雑貨を台湾へ積み出し、金、鉛、生糸、絹織物、鹿の皮、ガラス、黒檀などを台湾から日本へ持ち帰っている(ただ、台湾は貿易の中継地として利用されていただけで、この当時の台湾には甲冑など必要なかった)。

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