台湾人が提示する、中国が台湾を「日本の一部」と見なしていた証拠

 

台湾での事件に「われ関せず」を決め込んだ清国

副島全権大使は、同治帝との国書奉呈の謁見をめぐって清国の総理衙門(軍機大臣)とちょっとしたトラブルを起こした。清国側は、日本は中国と同文同種であるから、皇帝の前に出たいなら中国人同様に、まず「跪拝の礼」(ひざまずいて礼をする)をしてから用件を述べるべきだと要求。

しかし副島は、「跪拝の礼」とは属国が宗主国に対して行うことであり、日本と清国はそういう関係にあらず、ときっぱりと断った。そして、各国の北京駐在公使の一括謁見の前で、「跪拝の礼」を行うことなく「三揖」(立礼3回)のみをした後、国書を奉呈し賀詞を述べて退出したのである。

このことは、初めて清国と対等な立場で謁見した国家が現れたと、各国駐北京大使の間で称賛された。副島の件以前にも、清国は同じようなトラブルを他国と起こしており、たとえば乾隆帝の時代、英王ジョージ3世の特使マッカートニーが謁見を求めたときも、「三跪九叩」の礼をめぐってトラブルがあった。以来、西洋各国はその礼儀の国との「礼」をめぐるトラブルが続いた。

しかし、それまでは日本のような態度を取った国はなかったため、よけいに日本の態度が目立ったのである。これ以来、各国駐北京公使との一括謁見は中止となった。

それはともかく、副島との交渉に臨んだ清国政府は、「台湾東南部の生蕃(清国は反抗する台湾原住民をこう呼んだ)は化外の地の民であるため、その所業の責任を負うことはできない」との回答をしてきた。つまり、清国は台湾問題にわれ関せずの態度であったのだ。

交渉にあたった柳原公使は、「ならば、彼らの凶悪を懲罰し文明の征伐を図ることは開化政府の当然の義務である」との捨て台詞を残して引き揚げた。

この顛末を聞いた反戦論派の岩倉や大久保らは、態度をひるがえし討伐支持にまわった。こうして、台湾出兵の大勢が決まった。明治7年2月、台湾蕃地事務局総裁に大隈重信が、総指揮官である台湾蕃地事務都督に西郷従道陸軍大輔(次官)が任命された。

「台湾事件(牡丹社事件)」から「台湾出兵」への決定は、大久保利通と大隈重信が「台湾問題」(征台論)と「朝鮮問題」(征韓論)の問題処理に副島をはじめ外務省のリゼンドル顧問、柳原前光、鄭永寧ら「副島部屋」の面々と相談のうえ立案したものであった。決定が下された後、大久保と大隈は連名にて「台湾蕃地処分要略」全九カ条を答申し、それが閣議を通り国策として発動される運びとなった。

その第一条には、「無主の地清国領土外と見なされる台湾先住民地域(蕃地)に対して、琉球民殺害への「報復」処置として「台湾出兵」を基本方針とするとある。また、原住民討伐と現地人への撫育(保護)も挙げられている。

同年4月、西郷は谷干城陸軍少将や赤松則良海軍少将らをはじめ、軍艦5隻、船舶13隻、兵員3,600名を率いて台湾へと赴いたのである。ちなみにこのとき、西郷隆盛は士官を中心にした士族300人を集めて信号隊を編成して、西郷従道の出征を支援している。また、後の三菱財閥を築いた岩崎弥太郎は御用船の手配にあたっている。

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黄文雄の「日本人に教えたい本当の歴史、中国・韓国の真実」』より一部抜粋

著者/黄文雄
台湾出身の評論家・黄文雄が、歪められた日本の歴史を正し、中国・韓国・台湾などアジアの最新情報を解説。歴史を見る目が変われば、いま日本周辺で何が起きているかがわかる!
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