台湾人が提示する、中国が台湾を「日本の一部」と見なしていた証拠

 

台湾出兵の発端となった「牡丹社事件」

さて、日本が近代を迎えてから、その後の日台関係に大きな影響を与える事件が勃発した。それは明治維新直後の明治4(1871)年に起こった「牡丹社事件」である。

これは、宮古島の朝貢船が暴風に流され、遠く台湾東南部の八瑤湾に漂着したことからはじまる。そこには、原住民のパイワン族が住んでおり、彼らは日頃から略奪や虐殺を繰り返す支那人を目の敵にしていた。そこへ琉球人が漂着したため、彼らは支那人と間違えて襲いかかり54人も殺してしまったのである。

生き残った12名の琉球人は、命からがら逃れ、漢人集落から福州へ移されて翌年の明治5年6月、那覇に送り返された。

この事件を知った、天津駐在公使であった柳原前光(大正天皇の生母・柳原愛子の兄)は、本国の外務省へ詳報を送った。その報に触れた鹿児島県参事の大山綱良は非常に憤慨し政府に海外派兵を具申したのだった。

明治6年8月23日、樺山資紀陸軍少佐は、児玉平輔海軍大尉ほか2名とともに原住民の情況偵察のため、台湾東北部の蘇澳にあるブトウ社でタイヤル族の首長と会見した。樺山らは一時、花蓮港平野を占領するという構想を持っていたが、後に計画を変更して牡丹社討伐軍に加わることとした。

牡丹社出兵をめぐっては、当時の政府内部で意見が分かれた。木戸孝允、岩倉具視、伊藤博文、大久保利通、井上馨、渋沢栄一などの外遊帰国組は非戦論を説き、大隈重信、板垣退助、桐野利秋、副島種臣らは主戦論を説いて、征台論で朝野が騒然となった。

この件について明治天皇は副島種臣に全権を委ね、柳原前光を副使に任命すると決定を下し、清国政府との交渉にあたらせた。

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