誰の墓なのか不明な古墳を「天皇陵」に指定する、宮内庁の石頭ぶり

 

敏達天皇のもがりは、歴代天皇の中で一番長いものですが、なぜこのように長くなったかというと、そこには政治的な争いがあったからだと考えられます。
この時代には、「しのびごと」と言われる、今でいう弔辞を述べる儀式が持たれたことが書かれています。日本書紀には、この時、蘇我馬子と物部守屋が罵りあった様子が記録されています。もがりの期間の中で次の天皇を決めたらしく、その期間が延びるということは、なかなか次の天皇が決まらなかったことを意味しています。

敏達天皇の時には、候補の一人であった穴穂部皇子が、なんとかして天皇になりたいと思い、もがりの宮で喪に服している敏達天皇の皇后であった炊屋姫(かしきやひめ)を犯そうとします。どうやら、もがりの宮に入ることこそ、次の天皇になることを意味したようです。それを阻止したのが、蘇我馬子です。

大きな古墳を増築するために時間を費やすことが、政治的な不安定期間を作り出すということを理解したのでしょうか。もちろん、唐の制度を真似たと言えばそれまでですが、敏達天皇でヤマト政権の墓の形であった前方後円墳は終了し、この後、古墳は小さくなっていくのです。推古天皇の時には、薄葬令が出されたことになっていますが、これは大宝律令が最初ではないかと思います。それ以上に、仏教の影響が強かったのではないかと考えるのです。

仏教が教える死後の世界や、輪廻転生が、大きな古墳に埋葬することに意味がないことを気付かせてくれたのではないかと思うのです。それだけでなく、合理的な考え方が定着し出した影響があるのではないかとも思います。死者のための大工事をするくらいなら、生存者のための都や道路を作ろうという発想が強くなったのかもしれません。人々は藤原京の造営に夢中になったのです。

古墳というものに込められた各時代の為政者の想いを、適切に汲み取ってやることが残された古墳を眺める私達の務めであると思います。そのためにも、やはり誤った治定の元で埋葬者を理解しようというのは、根本的に間違っています。歴史を正しく認識することなく、国の発展も、真の平和も訪れてはこないと思います。

古墳の治定と、河内王朝の存在については、「隠された系図」の中でも一つの説を紹介させていただいています。興味がある方は、ぜひ一度読んでみてください。

宮内庁によると、現在治定されている古墳は、100パーセント間違いでない限りは修正しないそうですが、一度、文部科学省と宮内庁で議論していただきたい内容です。教科書で否定したものに対して、墓が存在し国の予算でそれを保護するのはおかしくはないのでしょうか。宮内庁には、そもそも、古墳とは誰のためのものかを考えていただきたいと思うのです。

image by:Wikimedia Commons

 

古代史探求レポート
著者/歴史探求社
どのような場所にも、そして誰にでも歴史は存在します。その場所は、悠久の昔より地球上に存在して多くの人々が生活し行き交った場所です。また、皆さんは人類が始まってから、延々と受継がれて来た遺伝子を継承している一人なのです。歴史探求社は、それぞれの地にどのような歴史があったのか。また、私達のルーツにはどのような人々が存在し、どのような行動をおこしたのかを探求し、それを紹介する会社です。もっとも、効果的と思われる方法を用いて、皆様に歴史の面白さをお届けします。「まぐまぐ」を通じて、メールマガジン「古代史探究レポート」を発行、購読は無料です。大きな歴史発掘報道や、企画展情報、シンポジウム等の情報を提供しています。
<<登録はこちら>>

print
いま読まれてます

  • 誰の墓なのか不明な古墳を「天皇陵」に指定する、宮内庁の石頭ぶり
    この記事が気に入ったら
    いいね!しよう
    MAG2 NEWSの最新情報をお届け