日本人だけが知らない天才、任天堂・岩田聡社長の功績

 

ところで、岩田さんが大学に入学し、ハル研に就職するまでの間、昭和58年(1983年)7月15日に、任天堂から、あのファミリー・コンピューターの初号機が発売されている。

岩田さんは、ファミコン史の初期段階から、任天堂に顔を出し、ファミコン向けゲームのプログラムをハル研で担当することになった。

しかも、このとき、岩田さんが作ったのは、「ピンボール」、「ゴルフ」、「バルーンファイト」など、今でも語り継がれる初期ファミコンの超名作ゲームばかり。

かなり技術的な話になるが、当時の日本には、ファミコンに採用された6502系CPUでのアセンブラに精通したプログラマーが少なく、岩田さんが慣れ親しんだPETが、同じ6502系CPUだったことも大きなアドバンテージになっていたとのこと。

中でも、特に「バルーンファイト」は、ゲームセンターにあるアーケード版よりも非常に滑らかな動きを実現し、アーケード版のプログラマが感心して岩田さんの元へレクチャーを求めて訪れたり、それが「スーパーマリオブラザーズ」の水中ステージに活かされた、等というエピソードも残っている。

要するに、岩田さんは、プロのプログラマになったばかりの一番最初の段階から、天才的な才能を発揮していたのだ。

その後、ハル研と任天堂の共同事業は継続。

1992年、ハル研の経営が、多額の負債から行き詰ると、当時の任天堂社長だった山内溥さんは、岩田さんをハル研の社長に抜擢することを条件に、経営建て直しを支援した。

この社長抜擢の前まで、岩田さんは、経営とは直接関係のない開発部長(プログラム開発の最終責任者)だったが、その後、山内さんの予想通り、社長として高い経営手腕を発揮(15億円の負債をわずか6年で完済)。

自ら率先してPRやプロモーション活動を行っていたが、社長になってからも、時々プログラミングにも参加し、「星のカービィ」や「大乱闘スマッシュブラザーズ」などのヒット作シリーズを送り出し、経営再建を成功させた。

「大乱闘スマッシュブラザーズ」の第1作のプレゼンテーション用プロトタイプを作り上げたのも岩田さんだ。

さらに、当時の岩田さんの天才プログラマぶりを伝える数々の逸話の中でも、特に有名なものに、開発中止寸前の状態に陥っていた「MOTHER2」(1994年発売)に参加した際、スタッフ達に対し、

「このまま、今あるものを使って完成させるなら2年かかります。しかし、私に1から作らせてくれるというのなら、1年で完成させます。どちらにします?」

と提案し、全てのプログラムを組み直し、言葉通り1年で完成させた、というものもある。

このときの縁から、「MOTHER」シリーズのディレクターだった糸井重里さんとはその後長年に渡って親交を深めることになる。

1998年、「ほぼ日刊イトイ新聞」の立ち上げにも参加し、「電脳部長」という肩書きも。

糸井さんによると、

「糸井重里事務所内に置かれている、パソコンの設置・設定。電源コードやLANケーブルの配線に至るまで全部、電脳部長がやってくれた」

という。

>>次ページ なぜ直感的に操作できるゲーム機の開発に乗り出したのか?

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