「電力の鬼・松永を倒せ」
池田は松永案を「電気事業再編法案」などにまとめ、国会に提出した。しかし、日本発送電は様々なコネをたどって政財界有力者に反対工作を行った。その労働組合も10万余の組合員を動員して停電ストライキをうち、赤旗を掲げて「電力の鬼・松永を倒せ」と叫びながら各地でデモを行った。主婦連も「民営化されれば、資本家達は大幅値上げして私たち庶民を搾取する」とシャモジを突き上げて反対した。松永はそういう主婦連幹部の集まりにも顔を出して、自説を説明して廻った。
財界からも反対されて四面楚歌となった松永は、ひるむどころか、新聞や雑誌のコラムでこう経営者たちを痛罵した。
統制経済の害悪は経営者に耳だけを持たせ、目も口もない人間にしてしまった。まるで自主性がない。つねられても痛いとは言ってはいかんという性格になっており、この石頭を破らなければ世の中は良くならぬ。
(同上)
しかし昭和25(1950)年5月、法案は審議未了となり、廃案が確定した。与野党は次の国会に向けて、共同で新しい法案の用意を始めた。
「ミスター松永、私はあなたに負けた」
万事休す、と見えたこの時に、思わぬ援軍が現れた。GHQのケネディ顧問である。ケネディはオハイオの電力会社の会長で、電力再編の顧問としてGHQに招かれていたのである。松永はケネディにも頻繁に会って自説を説き、ケネディも敗戦国民だからといってぺこぺこしない松永に好感を持っていた。
ミスター松永、私はあなたに負けた。あなたの案は現実に即している。電力会社に自主独立を求めるあなたの案は本物だ。9ブロック案でいきましょう。私も大いに力になるつもりです。
ケネディの判断によって、GHQはにわかに松永に友好的となった。頑固に自説を曲げなかった担当官も「あなたの熱心さには敬服しました」とシャッポを脱いだ。
10月、マッカーサー元帥は吉田首相あてに「松永案による電力再編を実施せよ」との政令を出した。連合国最高司令官の特別命令では、占領下の日本政府は拒否できない。12月には地域別に発電から送電・配電までを一貫して行う民営9社と、通産省から独立してこれらを統轄する公益事業委員会の発足が決まった。今日の電力供給体制がここに固まったのである。
「死んで仏となりて返さん」
しかし、松永の戦いはまだ終わってなかった。分割解体となった日本発送電は少しでも勢力を温存しようと、自社の人間を民営9社のトップに送り込もうとする。それではせっかくの自主独立の体制も骨抜きになってしまうと、松永は公益事業委員会の中で頑強に抵抗し、自主独立の精神を持つ人物を起用しようとした。
その一人に京阪神急行(阪急電鉄の前身)社長だった太田垣士郎がいる。太田垣は国会の公聴会で「経営責任体制の確立」を主張して、松永案を熱烈に支持した数少ない人物の一人である。松永は太田垣に目をつけて、関西電力の社長に据えようと、阪急の創立者・小林一三に頼みこんだ。しかし小林は、太田垣は病弱で、新会社の難局に当たらせてはその命を奪いかねないと断った。松永はこう言い張った。
今回の一件は国家の将来にも影響を与える大事なのだ。その事態の中で、仮に太田垣君の生命が奪われたとしても、それは男子の本懐の部類に属することだ。
(同上)
この言葉を小林から聞いた太田垣は「松永さんがそこまで言われるならば、自分の余生はなくなったものと覚悟して、やらせていただきます」と答えた。
松永は太田垣を関西電力の社長に据え、「クロヨン・ダム」(黒部川第4発電所)建設に踏み切らせた。人跡未踏の北アルプスの真ん中に、大発電所を建設しようという壮大なプロジェクトである。日本の高度成長を担う電力供給体制はこうして築かれていった。
松永は昭和46(1971)年6月16日、数え年97歳で死去。
生きているうち鬼といわれても 死んで仏となりて返さん
松永安左ヱ衛門は「電力の鬼」と言われながら、こんな歌を笑顔で詠んだ。我々子孫のために獅子奮迅の働きをして、素晴らしい遺産を残してくれた松永は、まさに仏様である。
文責:伊勢雅臣
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