「今度は、電力会社を真面目な私企業にするつもりだ。」
敗戦の日、すっくと立ち上がった松永は、こう言い放った。「さあ、これからは、僕がアメリカと戦争する番だ」。しかし、戦う相手はアメリカだけではなかった。
戦災により国民総生産は10年前の60%前後にまで落ち込んでおり、その復興のために深刻な電力不足をどうするかが、緊急の課題となっていた。同時に戦後の電力供給体制をどうするのかが政治問題として浮上していた。昭和24年の秋、電気事業再編成審議会が発足し、74歳の松永が委員長に引っ張り出された。
日本発送電は今までの発電・送電の一社独占を維持したまま、さらに配電事業まで吸収した形で民営化する、という案を打ち出した。同社の戦闘的な労働組合は、すべてを国有化する「電力民主化案」を作成し、社会党と共産党もこれに賛同した。ほとんどの官僚や政治家も一度、握った統制権力を手放すまいと、一社独占の案に賛成だった。戦前の経済統制も、戦後の社会主義も、根は同じなのである。
審議会では、松永はただ一人、電力会社の9分割案を主張して、他の委員と対立した。「自由放任主義というのは、一昔前の経済で、今は国が民間への介入を強めている時代です」という意見に、松永は、
いまが変なのだよ。戦前の民間経営の時代には競争を通じて血の出るような経営努力がされていた。今度は、電力会社を真面目な私企業にするつもりだ。
(『爽やかなる熱情 電力王・松永安左ヱ衛門の生涯』水木楊・著/日経ビジネス文庫)>
今でこそ国営独占企業の非効率が明らかになり、民営化が当たり前の世の中になったが、当時は英国の労働党政権が主要産業を次々と国有化しつつあり、国内でも社会党や共産党が全盛の時代だった。松永の先見性についていく人は少なかった。
「自分の手柄などどうでもいい」
一方、占領軍総司令部(GHQ)では、州単位で電力供給するアメリカの方式を下敷きにして電力会社を地域毎に9分割し、さらに各社に電力供給する発電専門の会社を作る案を考えていた。松永はこれでは独占が残ると何度もGHQに足を運び、根気よく説明したが、担当官も頑固で自説を曲げなかった。
親しい人が、GHQ案に「そろそろ賛成したらどうですか。委員長としての手柄になりますよ」と忠告すると、松永は怒った。
馬鹿者! 電力事業をいびつにしてもいいのか。電力事業は日本復興の原動力なんだ。親方日の丸のすねかじりや、権威主義は打破しなければ、どうなる。電力会社が自力で立ち上がらないことには、復興などできはしない。合理性や近代性に欠ける案はうけいれるわけにはいかない。自分の手柄などどうでもいい。
(同上)
日本の自主独立のためには、電力会社の自主独立が必要であり、そのためには自由市場競争がかかせないという松永の主張は、まさに福沢諭吉の精神そのものである。
宰相の器
結局、審議会は松永一人の抵抗で両論併記という異例の結論となった。その直後、池田勇人が通産大臣兼大蔵大臣に就任した。松永はすぐさま官邸を訪れて、大きな青写真や計算書を拡げて、数字を縦横に使いながら、自分の考えを説明した。
私は商売人ですから、どうやって儲ければよいのか知っています。しかし、今の私はもう商売をして儲けようとは思っていません。その代わり、国を儲けさせて、国民全部に良い生活をしてもらいたい。国を儲けさせるくらいのことは、私から見れば簡単なことです。そのために必要なのが私の主張する電力再編案です。
76歳の老人が、情熱を込めて説明する。言っていることも筋が通っている。これは人物かもしれない、と池田は直感した。「よろしい。あなたの案で行きましょう。私にお任せください」と決断した。
この決断に松永も宰相の器を見出した。以来、池田は松永を父親のように慕い、松永は池田政権の発足時には物心両面から力を貸した。この池田政権が天才エコノミスト下村治の描いた「所得倍増計画」を実行し、日本に高度成長をもたらす。