国に喧嘩を売った電力の鬼・松永安左ヱ衛門の知られざる生涯

shutterstock_198281771
 

今でこそ「民営化」は当たり前となりましたが、その流れにたどり着くまでに、先人たちのたゆまぬ努力があったことを忘れる訳にはいきません。今回の無料メルマガ『Japan on the Globe-国際派日本人養成講座』では、旧態依然の体制に異を唱え真っ向から権力に立ち向かい、「電力の鬼、電力王」とも呼ばれた偉大な先人、松永安左ヱ衛門の生涯が紹介されています。福沢諭吉の強い影響を受けたという、同氏の信念とは…?

松永安左ヱ衛門~自主独立と民営化の精神

松永安左ヱ衛門(やすざえもん)は明治8(1875)年、長崎県壱岐の富裕な商家に生まれた。幼い頃から、広い世界に出たいと志した松永は15歳にして上京し、慶應義塾に入って福沢諭吉の薫陶を受ける。福沢の独立自尊の信念に強い影響を受け、これが後に官僚統制や独占企業と戦う松永の姿勢を培うことになる。

明治43(1910)年、35歳にして水力発電による電気供給を行う九州電気株式会社を設立し、取締役となった。それまでの電気会社は電信柱1本につき、30灯以上の申し込みがないと電線を引かないという規定を設けていたため、多くの地域が電化から取り残されていた。松永はこれを撤廃し、さらに料金を10ワット1円20銭から80銭に大幅値下げした。

電力のようなネットワーク型事業では、売上げ規模が大きいほど、効率が高まり、収益もあがる。松永はそれを見越して、徹底的な需要開拓を行ったのである。それは同時に今まで電化から取り残されていた人口過疎地域や貧しい家庭にも電化の恩恵を行き渡らせることでもあった。

大正3(1914)年、第一次大戦が勃発すると、日本は戦争特需で急速に工業化が進み、エネルギー需要も急増した。雨後の筍のように各地に電力会社が生まれ、その数は1,000を超えていたと言われる。松永は近畿、東海地方の群小電力会社を次々に統合して、大正11(1922)年には1府10県に供給する東邦電力を設立。まさに電力の戦国時代にあらわれた織田信長だった。名古屋では3万5,000キロワットの最新鋭火力発電設備を米国から2台導入した。まだ米国でも稼働していない最新最大の設備だったので、ニューヨークタイムズ誌にも報道された。

大正15(1926)年、東京での営業許可が下りると、松永は「良質低廉サービス」をモットーに猛烈な売り込みを開始した。打倒すべきは日本で最も古い伝統を持ち、規模も断然大きな「東京電灯」。政治と結託し、独占的利益を欲しいままにする東京電灯を嫌って、松永に肩入れする企業も少なくなかった。

「統制経済をやる大政翼賛会は私の仇敵だよ」

1929(昭和4)年10月、アメリカに始まった大恐慌はほどなく日本を直撃し、労働者や農民の困窮が深まると、電力国営化論が盛んに論じられた。同じ基幹産業である鉄鋼は官営の八幡製鉄以来、国策に貢献してきたのに、電力では怪しげな資本家たちが国民を搾取している、というのである。第一次近衛内閣で、電力国家管理案が検討され始めると、松永は近衛首相に詰め寄って言った。

国家が要求しているのは電力というエネルギーでしょう。事業ではないはずです。軍部や官僚は国家主義のイデオロギーにとらわれている。あのような主張に押し切られるようでは政治家としてまことに頼りがない。ここはひとつ毅然たるところを示してほしいのです。
(『日本経済の効率性と回復策に関する研究会(2)報告書 第6章』矢島正之・著/財務総合政策研究所)

「分かりました」と言う近衛ののっぺりとした顔を、松永は心もとない思いで眺めた。およそ20年前、松永はパリで近衛と連れだって娼家に遊びに行ったことがある。明日もまた来るから、と約束して、松永が翌日行くと、近衛は来ていない。近衛にすっぽかされた女は、日本人は信用できない、と松永に怒りをぶちまけた。後で松永が近衛に理由を聞くと、別の女の所に行っていたという。松永はこれで近衛という男の正体を知った

昭和14年4月、電力管理法による日本発送電株式会社が誕生。発電と送電を一手に独占する国営会社である。松永はこれに一切協力しない方針をとり、東邦電力からは役員を一人も出すな、と厳命した。

挙国一致体制を確立したい近衛は、松永に大蔵大臣への就任を打診したが、にべもなく断られた。あきらめずに「それでは、大政翼賛会に入って、指導していただけないか」と粘ると、「なおさらいやだ。統制経済をやる大政翼賛会は私の仇敵だよ

松永は武蔵野の雑木林の奥に隠棲してしまった。

print
いま読まれてます

  • 国に喧嘩を売った電力の鬼・松永安左ヱ衛門の知られざる生涯
    この記事が気に入ったら
    いいね!しよう
    MAG2 NEWSの最新情報をお届け