誤解された「尊皇攘夷」。日本を救った吉田松陰が遺したもの

 

「尊皇攘夷」

松陰が志していた「尊皇攘夷」とは、よく誤解されているように「鎖国を維持して天皇制を守ろう」などというイデオロギーではなかった。「尊皇」とは皇室を中心に日本国が一つにまとまる事であり、「攘夷」とは、それによって欧米諸国の侵略から国を守ろう、ということであった。

20年ほど前に、清帝国がアヘンを売りつける英国と戦端を開いたが、国内の分裂で敗れ、半植民地状態に追い込まれた事は、わが国の朝野に衝撃を与えていた。江戸幕藩体制のもとでは日本は各藩に分立しており、国内の統一が急務であることは誰の目にも明らかであった。

尊皇」とは、天皇を中心として日本を一つの国家にまとめようということで、そのためには徳川幕府を倒して新政府を作ろうという「倒幕」の道と、幕府と朝廷の力を合わせて国家をまとめようとする「佐幕」の二つの道があった。ともに「尊皇」という点では同じである。

攘夷」も、「鎖国を続けたまま戦うという道もあれば、「開国して西洋の技術を導入しつつ防衛を強化するという道もあった。どちらにしても「攘夷」という点では同じである。結局、明治新政府は「倒幕」による「尊皇」と、「開国」による「攘夷」という道をとったのである。

神道思想家の葦津珍彦(あいづ・うずひこ)氏は、「攘夷の意義について、こう指摘している。

日本民族が国際交通を始める前に、まず攘夷の精神によって独立と抵抗の決意を鍛錬したことは、決して無意味だったのではない。この精神的準備の前提なくしては、おそらく明治の日本は、国の独立を守りぬくことができなかったであろうし、植民地化せざるをえなかっただろう。
(『大アジア主義と頭山満』)

「たとえ松陰の肉体は死んで仕舞うとも」

「私は、私のあとにつづく人々が、私の生き方を見て、必ず奮い立つような、そんな生き方をしてみせるつもりです」という松陰の遺志はその通りに松下村塾の門下生らに引き継がれた高杉晋作は、こう手紙に書いている。

松陰先生の首が、とうとう幕府の役人の手にかかりました。そうさせてしまったということ自体、まことに長州藩の恥というほかありません。そのことを口にするだけで、私は顔から汗が出てきそうです。先生と私は、師弟としての交わりを結びました。ですから私は、先生の仇を討たないままでは、心安らかに暮らしていくことなど、とてもできません。

この後、高杉晋作は元治元(1865)年の「功山寺挙兵」で勝利し、「禁門の変」のあと幕府への恭順を主張する「俗論派」を排斥して、長州藩の実権を握った。その上で、薩摩との盟約を結び、慶応2(1866)年の第二次長州征伐(四境戦争)では、ほぼ10倍の兵力を持つ幕府軍を破り明治維新への道を開く

明治新政府が発足すると、松下村塾で学んだ伊藤博文が初代の内閣総理大臣となり、大日本帝国憲法の発布、日清・日露戦争の勝利と、日本国の独立維持の主柱となった。同じく塾で学んだ山県有朋も日本陸軍の基礎を築いて、「国軍の父」と称された。

松陰は生前、門人たちに「たとえ松陰の肉体は死んで仕舞うとも、魂魄(こんぱく)は此の世に留って、お前たちの身に添うて、必ず私の此の精神を貫く」と断言していた。

この言葉通り、松陰の魂は高杉晋作や伊藤博文、山県有朋らの身に沿って、日本が天皇の下に一つにまとまり、欧米諸国の侵略から独立を維持するという「尊皇攘夷の志を実現させたのである。

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