誤解された「尊皇攘夷」。日本を救った吉田松陰が遺したもの

 

「収穫の時」

何一つ成功させることができないまま30歳で死んでいきます」とは、松陰の外形的な業績に関しては事実である。山鹿流兵学の家を継ぎ、11歳で毛利藩主に御前講義までして「神童」として将来を嘱望されたが、九州や東北に遊学、その途中で友との約束の期日を守るために、藩の許可を得る前に出発してしまい、結果的に脱藩となる。

その後、ペリーの黒船が浦賀に来航した際に、国防のために西洋文明を学ぼうと乗船を求めたが拒否され[、幕府に自首。しばらく長州萩の野山獄に幽囚となった後、生家に蟄居となった、この時に松下村塾を開き門人の教育に励んだ

そして今度は、老中・間部詮勝の要撃計画がもとで、死刑の判決を受けたのである。この松陰の人生のどこが収穫の時なのか。松陰はこう続ける。

私は、すでに30歳になります。稲にたとえれば、もう稲穂も出て、実も結んでいます。その実が、じつはカラばかりで中身のないものなのか…、あるいは、りっぱな中身がつまったものなのか…、それは本人である私にはわかりません。

 

けれども、もしも同志の人々のなかで、私のささやかな誠の心を「あわれ」と思う人がいて、その誠の心を「私が受け継ごう」と思ってくれたら、幸いです。それは、たとえば1粒のモミが、次の春の種モミになるようなものでしょう。

 

もしも、そうなれば、私の人生は、カラばかりで中身のないものではなくて、春・夏・秋・冬を経て、りっぱに中身がつまった種モミのようなものであった、ということになります。同志のみなさん、どうか、そこのところを、よく考えて下さい。

「私の魂が七たび生まれ変わることができれば」

「同志が私のささやかな誠の心を受け継ごうと思ってくれたら」という松陰の思いは「七生説(しちしょうせつ)」に基づいている。

「七生説」とは、楠木正成が朝敵・足利高氏に勝ち目のない戦を挑み、最後には弟・正季と差し違えて死ぬ直前に「七生までただ同じ人間に生まれて朝敵を滅ぼさばや(滅ぼしたい)」と言って、からからと笑ったという史話に依る。

松陰はこの3年前、安政3(1856)年に『七生説』という一文を書いた。そこでは、三度、湊川(兵庫県神戸市)の楠公正成の墓所を参拝して、そのたびに涙が溢れて、止めることができなかったと述べている。

自分と正成は血縁でもなく、会った事すらないのに、なぜ涙が流れるのか。それは自分と楠公の心が一つにつながっているからではないのか。

私はつまらない人間ですが、聖人とか賢人と呼ばれる立派な人々と同じ心をもち、忠義と孝行を実践して生きたいと思っています。現実的には、わが国を盛大な国にして、海外から日本を侵略しようとやってくる欧米列強を撃退したい、という理想を持っています。

しかし、行動は失敗し、結果的には不忠、不幸の人になってしまった。しかし、自分は楠公の心を自分の心としている。

私は、私のあとにつづく人々が、私の生き方を見て、必ず奮い立つような、そんな生き方をしてみせるつもりです。そして私の魂が、七たび生まれ変わることができれば、その時、はじめて私は、「それでよし」と思うでしょう。

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