「せめてあの子たちに働く体験だけでもさせてくれませんか?」
約50名の従業員を抱える小企業で、知的障害者がその7割を占める会社がある。ダストレスチョーク(粉の飛ばないチョーク)で3割のシェアを持つ神奈川県川崎市の「日本理化学工業」である。
この会社が知的障害者を雇い始めたのは、すでに50年以上前の昭和34(1959)年である。近くの養護学校の先生が訪ねてきて、近く卒業予定の二人を採用して欲しい、と依頼されたのが、事の始まりだった。
専務をしていた大山泰弘さん(現社長)は悩みに悩んだ。雇うのであれば、一生幸せにしてやらねばならないが、当時十数人の会社では、まったく自信がなかった。「うちでは無理です」と断ったのだが、その先生は2度、3度とやって来て、頼み込む。3回目には、大山さんをこれ以上悩ませるのに堪えられなくなって、こんな申し出をした。
大山さん、もう採用してくれとはお願いしません。でも、就職が無理なら、せめてあの子たちに働く体験だけでもさせてくれませんか? そうでないとこの子たちは、働く喜び、働く幸せを知らないまま施設で死ぬまで暮らすことになってしまいます。私たち健常者よりは、平均的にはるかに寿命が短いんです。
そこまで言って頭を下げる先生の姿に、大山さんは心を打たれて「一週間だけ」という約束で、二人の少女に就業体験をさせてあげることにした。
「あの子たちを正規の社員として採用してください」
就業体験の話が決まると、子どもたちだけでなく、先生方や親も大喜びした。朝は8時始まりなのに、7時には会社に来た。それもお父さん、お母さん、さらには心配のあまり先生までが付き添ってきた。夕方3時頃になると、親御さんたちが「何か迷惑をかけていないか」と、遠くから見守っていた。
約束の一週間の就業体験が終わる前日、十数人の社員全員が「お話があります」と大山さんを取り囲んだ。
あの子たち、明日で就業体験が終わってしまいます。どうか、大山さん、来年の4月1日から、あの子たちを正規の社員として採用してください。もし、あの子たちにできないことがあるなら、私たちみんなでカバーします。どうか採用してあげてください。
これが、社員みなの総意だという。それほどに二人の少女の一生懸命の働きぶりは、みなの心を動かしたのである。簡単なラベル貼りの仕事だったが、二人は仕事に没頭して、「もう、お昼休みだよ」「もう今日は終わりだよ」と背中を叩かれるまで、気がつかないほどだった。ほんとうに幸せそうな顔をして、仕事に打ち込んでいたのである。
働くことによって得られる幸福
社員みなの気持ちに応えて、大山さんは二人の少女を正社員として採用した。それ以来、障害者を少しずつ採用していったが、大山さんには一つだけ分からないことがあった。
それは彼らがミスをした時などに、「施設に帰すよ」と言うと、泣きながらいやがる事だった。どう考えても、会社で毎日働くより、施設でのんびり暮らしていた方が幸せなのではないか。
ある時、法事の席で一緒になった禅寺のお坊さんに、この点を尋ねてみると、こんな答えが返ってきた。
そんなことは当たり前でしょう。幸福とは、(1)人に愛されること、(2)人に賞められること、(3)人の役に立つこと、(4)人に必要とされること、です。
そのうちの(2)人に賞められること、(3)人の役に立つこと、(4)人に必要とされること、は施設では得られないでしょう。この三つの幸福は、働くことによって得られるのです。
こう聞いて、大山さんは、目から鱗が落ちるような気がした。「人間にとって『生きる』とは、必要とされて働き、それによって自分で稼いで自立することなんだ」と気づいた。
それなら、そういう場を提供することこそ、会社にできることなのではないか。企業の存在価値であり社会的使命なのではないか。
これ以来、50年間、日本理化学工業は積極的に障害者を雇用し続けてきた。
65歳のおばあさん
障害者を受け入れたものの、はじめの頃は、どうやって仕事を教えたらいいのか、苦労の連続だった。普通は設備に人間の仕事を合わせるのだが、大山さんは、障害者たちが仕事ができるように、一人ひとりの状態に合わせて機械を変え、道具を変えていった。
たとえば、数字が読めないために、量りが使えない子には、色分けした様々な重りを作って、青い容器の材料は青い重りで量って混ぜて、と教える。こういう工夫をして、一人ひとりの能力を最大限に発揮させていけば、健常者に劣らない仕事ができることが分かった。
『日本でいちばん大切にしたい会社』の著者・坂本光司氏が、この会社を訪ねた時、おばあさんがコーヒーを持ってきてくれた。「よくいらっしゃいました。どうぞコーヒーをお飲みください」と小さな声で言うと、お盆を持って帰っていった。
「彼女です。彼女がいつかお話しした最初の社員なんです」と、大山社長がぽつりと言った。15、16歳のときに採用されて、今は65歳ほどにもなって、腰が曲がり、白髪になっている。60歳で定年を迎えたが、その後も嘱託社員として雇われているのである。その50年という年月の重さを思うと、坂本氏は涙をこらえることができなかった。
その後、坂本氏が工場を視察したら、この女性は一生懸命、チョークを作っていた。