長野県民の心をひとつにする「信濃の国」が止めた「南北戦争」

 

だいたい中南信には県の名前に「長野が付いていること自体良しとしないムードも伝統的にないとはいえないような…。だから中南信に作る公共の施設等に「長野」の名を付けるなどはまかりならぬというような、だから施政者も余計な摩擦を生まないよう信濃とか信州とかを使ったケースが昔から多いのである。

そんなわけで、長野市と松本市は昔から仲が悪く、ライバル意識むき出し、いろんな施設やイベントなどの誘致では激しい争奪合戦をしてきた。

「信濃の国」の歌が県歌に制定されたのは、1968年(昭和43年)、全国的な県章、県花、県木などの制定気運の中で決まったものであるが、県民にとっては「なにを今さら」と面はゆい感じもあったのだろう。なにしろ「信濃の国」の歌は、明治の中頃から一世紀近く県民に歌い継がれてきた歴史があるのだから。

この歌は元々、小学校の運動会で歌う歌だった。今でも小中学校の運動会のプログラムの最後のところには「信濃の国」斉唱、とちゃんとあるのかも。

この歌が作られたのは1899年(明治32年)から翌年の1900年。信濃教育会(これも他の県にはないもの)の作った小学校唱歌の一つだったといわれる。作ったのは長野師範学校の先生の浅井烈、作曲も同じ師範学校の先生だったが、歌詞に合わせて歌うにはちょっとむずかしく評判がどうもかんばしくなかった

そこでかその師範学校の女子生徒達が運動会の遊戯用にと別の先生に依頼。こうして出来上がったのが現在のもの。なかなかいい曲、名曲ということで、現在ではマーチなどにも編曲されている。

かくして県下の小学校の運動会で歌われるようになり、次第に県民全体のものとして浸透していったと思われる。前に述べたとおり、長野県では1881年(明治14年)から1958年(昭和33年)まで、分県や県庁移庁運動が前後9回も起きたという実情もあり、この歌が県民の融和統合に大いに役立ったとされる。

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