姉の5つ目のセリフでは、「道路も狭いし、家も古いけど」と述べている。姉の6つ目のセリフでは、「確かに色々と制約があるし、お金もかかるけど」と述べている。
一方、父の最後のセリフでは、「古い家を思うように直すこともできないし、狭い道もそのまま使うっていう不自由」と述べている。
つまり、制約の例としては、姉も父も「家」「道」について例示しながら語っている。
だから、制限・制約が両者の対立点であるという模範解答は、間違ってはいない。
それにしても、うまいこと何度も推敲された、会話らしくない会話だと思う(会話とは普通こんなふうに推敲しないものだ笑)。
何度も推敲された会話文を、細密に振り返りチェックして記述するなんて、これじゃあ完全に「説明文読解」と同じじゃないか。
なぜ、わざわざ会話文にしたのか? それは、先にも述べたとおり、体裁上「日常性」と「非連続性」を出したかっただけだ。PISA型気取りだ。
そんなわけで、まあ「自己負担」と「制約」を入れてそれを模範解答とすることには、反論しない。しかし、「自己犠牲の是非」や「公的なことを優先することの是非」といった答案を正当に評価してもらわないと、困る。
受験生のほうが優れていて、採点者のほうが劣っている。
そのせいで、実はハイレベルな能力を持った受験生が白紙答案の受験生と同等に評価されてしまうのであれば、これほど嘆かわしいことはない。
記述出題の前提条件とは、「採点者の能力が受験生の能力より確実に高い」ことなのである。
それがなし得ないのであれば、記述出題は辞めるしかない。
数千人規模の受験であれば、今回入試センターが述べているような「一枚の答案を複数名で採点し、一致しない場合には上位判定者に協議して決定する多層的な採点体制」を採れるだろうが、50万人でもそれがなし得るのか?
上位判定者の上の上位判定者の上の上位判定者くらいまで用意しないと、無理ではないのか? そうでなければ、上位判定者よりも上位にいる生徒の記述答案を正当に評価することなど、できない。
なにはともあれ、この問3は、私が常日頃から存在を実感している「できる子ほどできない問題」の典型であった。
と、まとめたように見せかけて、まだあった(忘れていた)。
不備5)「の是非。」が20字に入るのかどうかが分かりづらい(解答用紙次第だが)。
不備6)「の是非。」という指定が、表現上の答えづらさを生み、不正解が増えたと思われる。
不備5はもう初歩的な問題すぎるのでパス。ひどいと思うが。
不備6だが、これはおそらく97%の誤答を生んだ要因の1つになったであろう。
たとえば、次の内容で考えてほしい。
A「自分ですべきか他人にしてもらうべきか」
B「自分ですべきかどうか」
C「自分でするということの是非」
A・Bは日常的に子どもたちが発信する(話す・書く)ことができる表現形式であり、扱いやすい。しかしCはどうか。少なくとも、発信はしない。受信(聞く・読む)だけである。
だから、この問いは、うっかりするとこういう表現になってしまう。
A+是非…「自分ですべきか他人にしてもらうべきかの是非」
B+是非…「自分ですべきかどうかの是非」
これらは、正答の条件に書かれた「文末表現が「の是非。」に接続できるもの」という条件に、正確に言えばそぐわない。
だから、こういう答案は不正解になった可能性がある。
自己負担や制限を受け入れるかどうか(17字)の是非。
これが不正解になってしまったのでは、もう、受験生をなぐさめてあげる意外に指導者の方途は見つからないというものだ。
なぜ「~の是非」と指定したのか。
それは、そうしないと字数が増え、その分だけ採点が揺らぐと思ったからだろう。
まあ、結果的にそれが裏目に出たわけだ。
これじゃあ、朝日新聞が書いているように、「受験生の力を識別できない設問」と言わざるを得まい。
さて、実は最もひどいと思われる、次の問いへ進もう。