自然環境の厳しい八丈島での暮らしは、秀家にとって苦難の連続でした。そんな秀家を何とか助けたいと願った豪姫は、前田家を通じて幕府の許可を得ると、毎年のように米や金子、衣類、雑貨、医薬品などを仕送りしたのです。
ある時豪姫は、絵師に描かせた自分の肖像画を荷物の中に紛れ込ませ、八丈島に送りました。その肖像画はいまも秀家の子孫がお持ちだそうですが、その肖像画の写しが、豪姫の菩提寺である大蓮寺(石川県金沢市)にあります。
色使いも含めて実に綺麗に描かれているのですが、よく見ると額の辺りだけ色が薄く、消えかけているのが分かります。これは八丈島に流されたまだ幼い息子たちが、毎日のように涙を流しながら「母上、母上……」と額の辺りを撫でていたためにそうなったのです。
若くして秀家と離れ離れとなった豪姫でしたが、その後は再婚話をすべて断り、金沢で61年の生涯を閉じました。いつかまた愛する家族と一緒に暮らしたいという豪姫の祈りは、残念ながら天に届くことはありませんでした。
もっとも、彼女のもう一つの祈りを天は聞き届けてくれたようです。来る日も来る日も家族の無事を祈った豪姫。彼女が亡くなった時、八丈島に流された三人はまだ健在だったのです。それどころか人生50年といわれていた時代に、秀家は八丈島で49年生き長らえ、83歳で生涯を閉じました。
きっと人の思いというのは時空を超えて、相手に届くのでしょう。
その後、八丈島に住む宇喜多家への仕送りは、加賀藩によって途切れることなく幕末まで続けられました。しかも新政府によって罪を解かれた宇喜多一族を船で迎えに行き、東京に住む家を用意して、生活の面倒までみたというのです。