私の好きな、パナソニック創業者の松下幸之助氏も、同じようなことを述べている。空気は、ないと数分ののちに生命がなくなるほどの重要なものであるのに、無限に近いほど、ふんだんにある。空気と同様のものが、水である。松下氏は、ある時労働者が水道の水を出しっぱなしにしながら、がぶがぶうまそうに飲むのを見た。これこそが自分のやりたいことだと気付いたという。電気がまだ出始めの頃、あらゆる人にこの電気を水のごとく自由に使えるようにしたら、さぞ人々の幸せにつながると考えたのである。
果たせるかな、今、世界は電化製品だけでなく、あらゆるモノが溢れ返り、すべてが極めて便利になっている。しかし、それで人類が幸福になっているかというと、話は別である。便利さが、逆に不満を生み出している。「有り難い」はずのものが「あって当然」「ないと不満」という傲慢さや矛盾を生むことにつながっている。モノだけではなく、非物質的なものや、人間関係にまで広がっている。
きれいな水が水道から出ることは、本来当然ではない。平和はタダじゃないし、選挙権は自然に発生しない。
学校を例に出すと、誰しもが勉強できることは当然ではない。また、学び方も重要である。その問題は、どうやって解けるようになったのか。試行錯誤したのちの正解にたどり着く感動があったのか、解き方を教えてもらって公式を覚えて解いたのか。そうなると、テストで同じ100点を取るのでも、価値は違う。
どうやって手に入ったものなのか。子どもがお小遣いを貯めてプレゼントしてくれたものの価値と同じ。サンタクロースのプレゼントをもらえるのと、クリスマスだから何か買ってもらえるという子どもとの感覚の違い。
人生全般も同じ。仕事が頂けることに有難みを感じ、喜びの中働くのか、単なる労役なのか。通勤するのだって、無数の様々な人の支えがあってこそである。同じ一秒でも、生き方で価値が変わる。
話が大きくなったが、要は適切な不足感や不便さは、必要だという考えである。教育においては、何でも保護して与えてあげることによる不幸は計り知れない。生きる力をつけたいなら、考えるべきは不足感。今後の大きなテーマとして考えていきたい。
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