増える中小企業の黒字倒産。モノづくりニッポンが町工場と共倒れに

 

急逝した父の会社を32歳で継ぐ

ダイヤ精機の諏訪貴子社長の経歴もユニークだ。95年に成蹊大工学部を卒業後、自動車部品メーカーに就職したが、2年後に父の経営するダイヤ精機に呼ばれ入社。当時は資金繰りも苦しく青息吐息の状態だったのでリストラ策中心の経営改善計画を作って父親に見せたところ半年後に自らがリストラされてしまう。

再建の道はこれしかないと考えて作成したリストラ策だったが、父にとっては一緒に働いてきた約40人の社員をリストラして再建をはかる気持ちにはなれなかったのだろうと思った。97年に退社して夫と子供と共にアメリカ転勤の準備をしていた2000年に再びダイヤ精機に戻るよう父から要請がくる。アメリカへ転勤するか迷った挙句、再び父の会社へ入社し、また同じようなリストラ策を提案したら今度は3ヵ月後に再び自らが2度目のリストラに。

ところが2004年に父が急逝すると、社員たちの要請もあってダイヤ精機の社長に就任することとなる。“この会社に決着をつけることが私の使命”と考え、32歳で社長を引き受け、アメリカ行きをやめ6歳の子供と日本に残ることに。4人の社員に退職してもらうとその効果でまもなく黒字に転換し一息つく。

気がついたことは何でもノートに

その後、社員からも再建策を提案してもらい、リーマンショック時は倉庫を整理してレンタルスタジオにしたり、不採算部門をカットし、社員と交換日記を交わすなど人材育成人材募集に力を入れる

募集しても応募がないので調査すると、会社紹介にゲージの作成とあったので「自動車の文字を入れたりした。1ヵ月に部品約1万点を出荷。図面7,000枚を描く仕事内容だったが、ゲージといった専門用語の入った会社案内では会社の内容が伝わっていなかったこともわかり、自動車の文字を入れた途端に人が集まりだしたこともあったという。

「20代の時は言われたことをやるだけ、30代はやらなければならないことで精一杯だったが、40代になって行動に知識が追いつき、将来の夢をみるようになった」と述懐し、「40代の今が一番楽しい」という。思いついたことは何でもノートに書きつけ、まず大丈夫というところからスタートし、それを成功させるために経営計画を作ること、自分の会社の強味を顧客に聞きそこを徹底的に伸ばすことが大事。ウチは納期がしっかりしているといわれたので、さらに短縮する努力を重ねたともいう。

いまや年に100回近く講演なども頼まれる身となり、ピンチになると燃えるタイプなので「高知城に行った時などは、大声で天下を取ってやるぞ」と叫んでストレスを解消し自らを励まし、「会社の人達が大田区に一戸建ての家を建てられるようにするのが今の夢だ」と笑う。

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