拘束中、動画が4回、静止画が1回公開された。ほかにも公開されていない動画を1回、2018年9月上旬に撮られている。日付と、拘束者から呼ばれていたイスラム名「ウマル」を言わされたものだ。また同8月下旬と、トルコ側に引き渡される前日と当日にリンゴを持たされて静止画を撮られている。
動画はいずれも私が日付を話しているが、これでは生存証明にはならない。過去や未来の日付を言わせて撮影していた可能性もあるからだ。撮影された動画も静止画もすべて、いつの時点のものか示すものではなかった。
結局、私の拘束中に取られた唯一の生存証明は、前出の2016年1月に2度答えた7つの質問への回答だけだった。それが機能しなかったことはすでに書いた通りだ。また、日本政府は私の妻から生存証明を取るための質問項目を取得していたにも関わらず、解放された後までそれを使用しなかったか、使用したが拘束者には届かなかった。日本政府は、私が解放されるまでの間、私が生きているかどうかの確認をしなかった、もしくはできなかったいうことになる。
身代金などの対価を人質と交換するためには、事前に生存証明を得る必要がある。これがなければその交渉相手が本当に人質の身柄を押さえているのか分からないし、生きているという証明がなければ、人質を救出できないうえに金だけ奪われる恐れがある。
解放1カ月前の9月中旬、外務省の担当者は「信頼できる情報源」から得たとして、私の妻に私の近況を知らせたが、内容は事実とは全く異なるものだった。「過去にも人質解放に成功しており、その情報源がよいと考えている」ということだったが、私の拘束者につながる情報源だったのかというと疑問があると言わざるを得ない。
しかし、「信頼できる」と考えていたのだから、解放交渉をする気があるならばしていたはずだし、本当に拘束者なのか確認し、私が生きているのか確証を得るために生存証明を取っていたはずだ。
外務省担当者は当時、妻に「拘束者側のトップと話ができている。金は払わないという日本政府の立場は変わらず、身代金以外の方法を探っている」と話していた。対価を渡すわけではないから、実際に私を拘束しているのか、本当に生きているのかを確認する必要はないと考えていたのかもしれない。情報が嘘だったとしても、何も渡さなければ失うものはない。生存証明を取ると身代金などを払うかのように思われる恐れがあり、あえて求めなかった可能性もある。
これらを考慮すると、日本政府が本物の拘束者との交渉ができていたかは疑問だし、できていたとしても、身代金など対価を渡すという話にはならなかったということは言えるのではないか。(つづく)
※この原稿は、メルマガ『安田純平の死んでも書きたい話』の創刊2号から一部抜粋したものです。全文お読みになりたい方は「初月無料」のメルマガをご登録の上、お楽しみください。
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