私の経験で言えば、1995年の阪神・淡路大震災の時、空中消火をめぐって当時の自治省消防庁と対立したことがあります。多くの犠牲者が出た神戸市兵庫区、長田区の火災について、出動要請を求める陸上自衛隊に対して3日間にわたって回答せず、最後に「燃えてしまったから空中消火は必要ない」と回答した一件です。
この看過できない「未必の故意」とも言うべき不作為を指摘したところ、それこそマスコミを総動員して「市街地火災に対する空中消火は世界的にも前例がない」と、自分たちの不作為を正当化してきたのです。
しかし、心ある第一線の消防隊員や兵庫県上層部、米国ロサンゼルス市消防局の協力のもと、調査を進めていくほどに、自治省消防庁の主張は覆っていきました。そして翌年12月には、私が月刊『文藝春秋』に執筆しようとしていた記事に対しても非協力的だった自治省消防庁が、掌を返したように協力姿勢を示したのです。
これは、自治省消防庁のキャリア官僚の間で「小川さんの指摘に答えられないようでは、国民の負託に応えることはできない」という声が出て、トップダウンで協力姿勢に転じた結果です。その後、私は足かけ10年の期限いっぱい消防審議会の委員を務め、いまも専門委員として関わりを続けています。
韓国との一件でも、うまく政治的に着地できれば、安全保障面の関係を一定のレベルで維持することは可能でしょう。あらためて胸に刻むべき教訓。相手との文化の違いを前提に向き合い、同じようにフェアに振る舞うはずだと思い込まないこと、でしょうか。(小川和久)
image by: viper-zero / Shutterstock.com