僕が「マウンティング」という不毛な営みから距離をおいた理由

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誰しも職場の同僚や友人との人間関係でだれもが一度は経験する、自慢や批判によるいわゆる「マウンティング」合戦。無料メルマガ「仕組みと掛け算でビジネスを成功に導く【平成進化論】」の著者である鮒谷周史さんは、この「マウンティング」という不毛な行為から一線を画すことで心の平安を得られたと語っています。

「マウンティング」という不毛な営みから距離を置け 

世の中において「マウンティング合戦」ほど無駄で、不毛で、人を消耗させるものはない、と考えています。
マウンティングとは、自分が相手よりも優位な立場にあることを分からせるための態度を取ったり、示威行為を行ったり、といったことを意味する言葉です。小中学生の社会においてはたいていの場合、分かりやすい形で(親の職業とか、家が金持ちかどうかとか、住んでいる家のデカさとか、とかで)相手に乗りにかかるし、大人になってからであれば、(一部、例外もあり、あからさまに態度で表す人もありますが)少し頭のいい人や常識をわきまえた人ならばいかにエレガントに(自慢していないように見せかけながら)マウンティングするか、が課題になったりするものです。

霊長類の本能、とでもいうべきものでしょうから、これをなくすことはできないにせよ、

 学歴とか、勤務先企業のブランドとか、規模とか、年収とか、肩書とか、役職とか

 分譲とか賃貸とか、マンションの高層か低層かとか

 どんな車に乗っているとか

 どんな服装を着て、どんな時計やアクセサリーを身につけているとか

 結婚しているとかしていないとか、子どもがいるとかいないとか

 子どもの成績がいいとか悪いとか、どんな学校に通っているとかいないとか

こんなこと(装飾や記号のようなもの)を意識して生きて疲弊するなど、実にくだらないし、愚の骨頂であるとすら思っています。

正直、私(鮒谷)は、上に羅列したようなことはどうでもよく、企業規模とか全く気にならないし、(私自身、吹けば飛ぶような零細企業経営者)、役職こそ代表取締役であっても、「有限会社」の経営者であったり、港区在住でもなければ、タワマン住まいでもなく、借家住まいで、車も持っていないし(乗れないし)、(夏用と冬用の、それなりのスーツだけは一着ずつもっていますが)高価な服装は一切所有せず、高級時計も身に着けず、その他、一切の、「マウンティング合戦」から距離を置き、「物質や、肩書や、世間体を意識」することとは程遠い世界に生きることで平和で平穏な毎日を過ごしています。

実際、世間的に「凄い!」といわれるものを持っている人と接しても、あるいはそんな人から、ときに「乗りにかかられても」なんとも思いません。

社員数とか企業規模とか、住んでいる場所とか家の広さとか、

所属企業とか、役職とか、高級な車とか時計とか服装とか、

いろんなものを誇られても、究極のところ、それら「本人の付属品」のようなものを誇らしげに語られたところでぶっちゃけ、

どうでもいいしくだらない

と思っているから、心が乱れることもなければ、凄いなあとは思うし、そのように声をかけることもありますが、だからといって、私(鮒谷)自身がそれらを求めたい、求めよう、といった気にはまるでなりません。

そういえば、ここまで書いてきて思い出したのですが、その昔、身につけているすべての服装がジョルジオ・アルマーニ、という男(現在、当社の200万円超の債権を放置したまま、どこかに雲隠れ中ですが)と取引したことがあり、その際、私(鮒谷)の上から下まで1万円くらいで完結している服装を見て、めちゃくちゃ馬鹿にしてきたことがありました。 

でも、いろんなことをいわれてもなんにも思わなかったんですよね。服装を見て判断されたところで、私自身、別に服装のセンスとか、かけた金額で競おう、なんて考えたこともなかったから。

これは一つの例ですが、こうした営為から距離を置くととてつもなく精神的に軽くなれるもの。

言葉を換えると、世の中において(他の人がどうであれ)自分自分が至高と感じている価値に没頭・没入し、それ以外のものに、必要以上の価値を見出さない人が、もっとも精神的に自由な存在となれるのかもしれないのでは、と思ったりしています。

もとより、他者が価値と感じるものについてケチを付けるつもりはなく、敬意は払えども、万一、それを押し付けられても、それによって心を乱されない、(私は別のものに価値を置いているから)といった精神の状態(境地)に入ることができたとき、人は他者との比較から解き放たれるのではないでしょうか。

繰り返しますが、私(鮒谷)自身、誰がどこに住んでいるとか、どんな家に住んでいるとか、どんな車に乗っているとか、どんな時計を身に着けているとか、肩書きであったり、職業であったり、所得(年収)であったり、そのようなものにはほとんど何の興味もありません。ただ、興味があるのは「マニア、オタク」として、他の誰も興味を示さないような対象に没頭していて幸せそうに生きている人、のみ。

自身が興味関心の対象として選んだ分野について、「論」や「説」を立て、さらにはそれを「学」のレベルに引き上げ、最終的には「道」として、自らの人生や生活と一体化させることができれば、そこで至福の喜びを感じることができるでしょうし(これぞマニア道、オタク道)、 私(鮒谷)自身が、その状態に至高の価値を置いているからこそ、はっきり言えば、他の人の(外的な)装飾や記号のようなものには何の興味も持てないし、したがってそこにおいて比較相対する感情も生まれず、平穏・平和な感情を保ち続けることができているのです。

こうした、自身が至高と考える価値の対象を持たなければ(見いだせなければ)、どうしたって、分かりやすい、他人の装飾や記号に目が向いてしまい、それよりも自分が上、自分が下といった、くだらない葛藤が始まり、自らを疲弊させることだけとなるのではないでしょうか。

そんな状態にはまり込まないためにも、「私」はこの分野に全てを捧げているのだ、という対象を早期に確立する(所を得る)ことが、人生において、安定と充足の感情を保ちながら生きていく秘訣ではないかと考えています。

こうした世界は、「自分の興味・関心の対象について、マニアレベル、オタクレベルで追求する存在」になれたとき、体現されるのではないでしょうか。

image by:alphaspiritShutterstock

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著者/鮒谷周史
大阪府出身、早稲田大学商学部卒業。投資家・経営者。複数の高収益企業を経営しながら、ITや金融、人材などのベンチャー企業20社超への投資家としての顔も持つ。著書「仕事はかけ算」がベストセラー。メルマガ「平成進化論」を配信中。
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