城を攻め、城を築いて天下を取った日本史上最強の「城武将」秀吉

 

ここで視点を少し変えてみると、もう一つ有効な手段があることが分かる。それは元々の備蓄米を減らしておくという方法である。しかし、これは常識的に考えて難しい。そもそもいつ戦争になってもおかしくないから戦国時代なのであって、敵方の軍団が間近に迫れば猶のこと、備蓄米は増えるのが当たり前である。

ところが近世になり米の相場が立つようになると、兵糧米には単なる有事のための食糧備蓄としてだけではなく、今の株式のような資産としての側面も出て来た。しかも米は古くなる。その前にできるだけ高く売って、銭に換え、武器等を購入してからできるだけ安く(あるいは収穫期に年貢米として)再調達したい筈である。

秀吉はこのことをよく理解していた。現在でもニューヨーク株式市場などで有名仕手筋が時折実行する「リフト」と呼ばれるような相場の意図的なつり上げをこの時代に既にやっていたのである。

一例を挙げると、因幡国鳥取城攻めの際、秀吉は予め若狭商人を送り込んで米の買い占めをやらせた。それに応じてしまった鳥取城の米蔵はほとんど空同然になったのである。随分迂闊なことをしたものだと思うかもしれないが、当時にあってはこれは無理からぬことであった。

大船で乗り付けた若狭の商人たちが「とにかく米がいる。金に糸目は付けない」などと口々に言いながら競うようにして大量の米を買い漁り始めると領内の景気は俄かに活気づいたであろう。兵糧を売るなら最高値の今をおいて他にないと判断するのは至極当然のことであった。

実際この後、吉川元春(毛利元就の二男)の命を受け、鳥取城防衛の将として着任して来た毛利吉川一門の吉川経家もこの事態にあきれはしたものの責めることはしなかった。戦には確かに米もいるが、それ以上に金がいるのもまた事実であるからだ。

これにより秀吉の兵糧攻め(所謂「かつえ殺し」)は一気に成功した。この間、鳥取城包囲の最前線と、秀吉軍背後の防衛線に挟まれた領域にちょっとした安全地帯ができたために米価急騰バブルに沸く新しい町ができたと言う。この城下の活況を飢えに苦しむ城内の兵はどのように見たであろうか。その心理的ショックは計り知れない。

そして既にここに、後の小田原攻めで完結する秀吉の攻城戦必勝法の原型があるように思うのである。秀吉は城を落とし、城を築いて天下を取った。まさしく日本史上最強の「城武将」だったのである。

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ここにあるエッセイが『8人ばなし』である以上、時にその内容は、右にも寄れば、左にも寄る、またその表現は、上に昇ることもあれば、下に折れることもある。そんな覚束ない足下での危うい歩みの中に、何かしらの面白味を見つけて頂けたらと思う。

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