ご当地グルメの代表格として有名な、宮城県仙台市の牛たん。しかしその牛たん、昔から仙台名産だったわけではなかったのだとか。今回の無料メルマガ『繁盛戦略企画塾・『心のマーケティング』講座』では著者で人気コンサルタントの佐藤きよあきさんが、何もないところから名物を育て上げた仙台人の団結力を紹介しています。
“輸入牛たん”を名物に育てた、仙台の底力
宮城県仙台市内には、約100軒の牛たん専門店があります。焼いた厚切り牛たんと麦めし、テールスープがセットになった定食が人気のメニューです。なぜ、ここまでお店が増え、「仙台=牛たん」と言われるまでの名物となったのでしょうか。
事の始まりは、ひとりの料理人。焼きとりを中心とした飲食店「太助」を営んでいた佐野啓四郎氏が、ある日洋食屋で食べた「タンシチュー」の旨さに驚き、これをお客さまに焼いて食べさせたい、と思ったことがキッカケで誕生したのです。
試行錯誤の末に完成した牛たん焼きは、瞬く間に評判となり、地元では知らない人がいない、というほどの存在となったのです。そこから、真似するお店が増え、牛たん専門店が次々に生まれたのです。
しかし、それだけでは全国的に知られるまでには至りません。最初に動き出したのは、仙台商工会議所です。仙台には、年間を通じて食べられる名物がなかったので、地元で愛されている牛たんに眼をつけたのです。仙台名物にしようと、率先してPRを始めたところ、テレビや雑誌が飛びついたのです。この頃より、「仙台に牛たんあり」と広がり始めたのです。
次に動いたのは、地元の商社。米国産牛肉の輸入自由化に合わせて、仕入れを強化し、お店が安く提供できる基盤を作ったのです。
ここで初めて知る方もいるかもしれませんが、仙台の牛たんは、そのほとんどが輸入もの。米国産と豪州産なのです。
脂肪の多い米国産は、厚切りにしても軟らかく食べられるので、ほとんどのお店で当初は米国産を使っていました。しかし、BSE問題で輸入できなくなり、休業や廃業に追い込まれるお店も多くありました。そんな中、豪州産に切り替えて、頑張ったお店も多いのです。
ただし、豪州産は自然に近い状態で育てられているが故に、肉質が固いので、仕込みを工夫したり、熟成させたりすることで、軟らかくし、旨味を引き出す努力をしたのです。そんな苦労を背負ったからこそ、仙台の牛たんは生き残ったのです。料理人の気概が、名物を守ったのです。
そして最後に、「仙台=牛たん」を決定的にしたのは、JR東日本なのです。名物があっても、交通手段がなければ、日本中の人が集まって来ることはありません。その手段のひとつである鉄道会社が、仙台に着くとすぐにでも牛たんが食べられるように、駅構内に「牛たん通り」を作ってしまったのです。
これほど交通の便の良い場所はありません。仙台を目的に来た人でなくとも、牛たんを食べに来た人でなくとも、電車を降りさえすれば、牛たんを味わうことができるのです。名物を知ることができるのです。PR効果としては、非常に大きな期待が持てます。ここをキッカケに牛たんファンになれば、いろんなお店に行ってみたくなります。
牛たん焼きを生み出した人、地元商工会議所、地元企業、鉄道会社。多くの人たちが、牛たんを名物にしようと、心をひとつにしたのです。目的や意識のバラバラな個人や企業が、同じ方角を向くことは難しいものです。たとえ向いたとしても、利害が絡むと、ひとつにはまとまりません。それを成功させた仙台は、素晴らしいと言えます。地元食材ではない“輸入牛たん”を名物に育てた仙台を、日本全国が見習うべきです。
「観光資源がないからなぁ~」と言い訳している、地方の人びとよ。反省してください。
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