カンヌ国際映画祭コンペティション部門審査員賞、アカデミー賞外国語映画賞ノミネートなど、高い評価を受けた映画『存在のない子供たち』。日本では、7月20日から各地で上映されているこの映画の感想を伝えてくれるのは、メルマガ『ジャーナリスティックなやさしい未来』の著者、引地達也さんです。引地さんは、レバノン人女性監督ナディーン・ラバキーが、12歳の少年の目線を通して描く、中東の現実を「圧倒的な分からなさ」と表現。かつてレバノン人留学生と交わした会話を思い出しています。
『存在のない子供たち』の圧倒的な「分からなさ」
東京のシネスイッチ銀座で公開中の映画『存在のない子供たち』(ナディーン・ラバキー監督)は、圧倒的で強烈なメッセージをたたきつけてきた。
レバノンを舞台に12歳の少年の目から見た世界は絶望的で、貧困や国境、難民や戦争等、近代社会が抱えるすべての問題が内包しているが、その重い課題の1つ1つはむしろ物語の地脈で、その脈が錯綜する社会であぶり出される現実として、「悪」の形がより具体的に子供に迫ってくる。
街の描写と12歳の少年の目線、必要な分だけの押さえられたセリフで表現するストーリー展開は、作品としても面白い。そして、そのメッセージの深刻さは、同時に希望をも含んだ重量感がある。
映画の舞台はレバノンの首都ベイルート。貧民街と思われる主人公が住む地区、そして庶民向けの市場と庶民向けの遊園地、そして住居風の小屋が並ぶスラム地区。どこまでいってもその地平線上には余裕のある人も社会も見られない。
カメラの目線は、出生届がないために12歳ぐらいだろうと推定するしかない栄養失調気味の少年から見える風景だ、その低さから見れば、それら貧困が織りなす街の情景は恐ろしく威圧的だが、それだから彼は強く、たくましく生きている。
ストーリーはともあれ、彼が最も大切にしていることを探ろうと、見ている私は画面内で表現する彼をはじめとするキャストの表情とセリフに神経を尖らせていたが、すっかりやられて、お手上げだったのは私のほうだった。つまり、お前は何が分かるのか、という問いかけだ。画面で展開されている中東の乾いた情景は私を突き放しにかかる。
これには既視感がある。20年以上前の話。留学中にあったレバノン人の男子学生とのディスカッションでの一コマで、私は知識として獲得していたレバノン内戦の混迷、イスラム教とキリスト教の共存がいかに難しいか、そして「ヒズボラ」という「民兵組織」が平和に脅威を与えている可能性を指摘したところ、そのレバノン人の表情が変わり、自分の親戚がヒズボラに所属しているが、彼は戦闘を好んでいないことを力説した。
何も知らない耳学問の発言を私は恥じた。それ以来、レバノンのことも、隣のシリアのことも、そこに介在する中東の国々のことは「わからない」のである。
映画の一コマで、犯罪者や不法就労で雑居収容された拘置所(監獄という表現が適当かもしれない)の場面があった。ならず者ふうのレバノン人の男たちや不法就労で収容されたアジアやアフリカの女性たちが鉄格子の中で雑居しているところに、アップテンポでギターを奏でながら、神の愛を歌う慈善団体が「勇気づける」というシーンだ。レバノンの現実やこの映画で起こっている子供の人権侵害に歌が有効なのかの問いかけのような演出だ。
私はこの慈善団体のように歌うこともギターを奏でることさえできない無力感に襲われる。この映画のリアリティは、このアイロニカルな場面でも容赦なく現実をたたきつけてくる。フィクション作品であるが、間違いなく突き付けるテーマはリアル。「わからない」私にとって、それは何かの試練のような気がしてならない。圧倒的な「わからなさ」が、現状私とレバノンの距離感なのだろう。
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