日本と韓国、サウジとイラン。根深い隣国対立のよく似た構図

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海外のメディアのニュースを、日本のマスコミではあまり報じられない切り口で本当はどういう意味で報じられているのか解説する、無料メルマガ『山久瀬洋二 えいごism』。今回は、サウジアラビアとイランの確執について、極東の日韓問題と比較しながら、その歴史的構図の類似点とともに解説されています。

サウジとイランの対立と日韓関係といえば?

【ニュース解説】

イエメンのフーシ派と呼ばれる組織が発射したドローンがサウジアラビアの石油施設を攻撃したことから、中東の緊張がにわかに高まりました。
ここで注意したいことは、フーシ派という名前はあくまでも西欧世界がテロ組織であると認定し蔑称として使用していることです。彼らの正式名称はアンサールアラー Ansar Allah」といいます。
イランが、このフーシ派と呼ばれる組織を支援していたということから、サウジアラビア、さらにイランと対立するアメリカがイラン政府を強く非難します。

そもそも、なぜイランとサウジアラビアとはこれほどまでにお互いを嫌うのでしょうか。
教科書的にいえば、サウジアラビアにはイスラム教スンナ派の人々が多く、イランはスンナ派と宗旨を巡って対立するシーア派の国家であるからだとよくいわれます。
そしてフーシ派ことアンサールアラーはシーア派の反政府組織で、そこにイランと彼らとの繋がりがあるというのが表面上の解説です。今回紹介する BBC のヘッドラインもそう解説しています。
しかし、本当にそれだけなのでしょうか。BBCの解説よりさらに根の深いものはないのでしょうか。

ここで、歴史にスポットをあててみます。
その昔、イランは伝統的に帝政ロシアの南下政策の脅威にさらされていました。
イランの西にあって、ロシアのライバルであったオスマントルコは中東一帯を支配する帝国だったため、ロシアの南への出口として、ロシア帝国は常にイランへの利権の確保を画策していたのです。
そんなイランに油田が見つかり、イランはロシアのみならず西欧列強全ての注目するところとなりました。
20世紀になって、オスマントルコが衰微すると、その支配地に独立運動が起こります。
この独立運動を画策しながら、中東での権益の拡大を模索したのは他でもないイギリスでした。あの有名なアラビアのロレンスなどの活動でサウジアラビアは分断と併合を繰り返し、現在の王国となったのです。

しかしイランの状況は、オスマントルコが衰退しても変わりませんでした。彼らは、ロシアへの対応を模索しつつ、中東に勢力を伸ばしてきたイギリスの進出にも晒されます。
そして第一次世界大戦の最中にロシアで革命がおこり、社会主義国となりソ連と国名を変えた旧ロシアは、イランに維持していた権益を放棄し、イランはそのままイギリスを中心とした西欧の傘下にはいることになったのです。
戦後の冷戦の影響で、ソ連の隣国であるイランはアメリカとイギリスにとって欠くことのできない戦略拠点となります。
当然油田の権益もイギリス、そしてアメリカに受け継がれ、彼らが支援する新しい王朝のもとで、イランは近代化を進めようともがいたのです。
しかし、こうしたイランにアメリカやイギリスの利権を排除しようというスローガンをもとに民族運動がおこります。
ハーレビ王朝が革命で倒され、イスラム教の原理によって国を統治する反米政権が誕生したのは1978年のことでした。
イランに莫大な投資をしていたアメリカは、この革命に強く反発します。

さて、サウジアラビアは、イスラム教の聖地メッカを抱えるイスラム教徒にとってはきわめて大切な地域を支配しています。 しかも周辺はといえば、戦前はイギリス、戦後はアメリカを中心とした西側諸国と、それに対抗するソ連に支援されるアラブ社会とのはざまで常に政変が絶えません。 それだけに、サウジアラビアの中には過激派から穏健派まで、様々な人々が交錯し、さらに隣国での政変や戦争のたびに政権維持への危機感にさらされます。
サウジの王室はそうした足元の危機を回避するために、湾岸戦争以来アメリカ軍の駐留を許すことで、政権の安定をはかったのです。
こうした歴史的政治的背景の違いがこの二つの隣国の対立の原点なのです。

隣国同士が敵対するという図式は、決してサウジアラビアとイランに限ったことではありません。
イランの東隣のパキスタンは、インドと袂を分かって独立して以来、インドとの緊張関係が現在まで続き、いまだにこの二つの国の間には、民間航空すら就航していないのです。
インドを統治していたイギリスは、インドでの独立運動を抑えるために、インド国内のイスラム勢力とヒンズー教徒との対立を巧みに利用したといわれています。
こうして深まった亀裂がインドとパキスタンとの分断を生み出しました。

ところで、もし今海外にライターがいて、ここで分析したことと同じ視点に立って、日本と韓国との対立を描こうとしたらどうするでしょうか。
その人はきっとこのように書くでしょう。

オスマントルコによって南下政策を阻まれたロシア帝国は19世紀の末には極東に目をつけた。そして衰退している清帝国とその影響を強く受けていた朝鮮の李王朝に向け南下政策の矛先を定める。
中国への権益を維持していたイギリス、さらに積極的に中国に進出を目論んでいたアメリカはロシアの南下政策を恐れる日本に接近。イギリスの後押しで日本はロシアと開戦。
アメリカの仲裁もあって、日露戦争は日本に有利な条件で終結。やがて朝鮮半島は日本が支配することになった。
アメリカは、日本が朝鮮半島を支配することを前提に、スペインとの戦争で奪い取ったフィリピンの支配を日本が承認することを密約。
その後、ロシアには革命がおこる。そして新生ソ連は中国や朝鮮半島への南下政策を正式に断念。
そのことで、日本が本格的に中国に進出できるようになるとイギリスやアメリカはそれが新たな脅威に
やがて、その対立が太平洋戦争に発展し、戦後朝鮮半島は南北に分断。冷戦の中でアメリカは韓国を重要な戦略拠点と位置付けた。
そんな韓国に民主化の動きが高まり、独裁政権が崩壊。
しかし、北朝鮮との緊張関係が続く中、韓国にはイランのような反米政権は生まれず、いまだにアメリカ軍が駐留。
これは日本も同様。ただ、民主化した韓国の人々は、過去の歴史的経緯から、西欧列強に変わって朝鮮半島を自国の安全のために支配した日本に対して強い敵愾心を抱き続ける

こうライターが書いたとして、私が先に解説したイランとサウジアラビアとの対立の図式と比較したとき、最後の部分、つまり韓国も日本もアメリカ軍に依存している状況を除けば、様々な類似点が発見できるはずです。

隣国はよく対立するものです。そしてその対立の背景は、民族同士、宗教上の分断だけが原因ではないことが、これでおわかりになるかと思います。
我々は、西は中東やアフリカ、東は朝鮮半島まで、いまだに19世紀から20世紀にかけての西欧、そして最終的にそれに追随した日本を含めた当時の強国の利権争いの後遺症から抜けられずにいるのです。

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【著者】 山久瀬洋二 【発行周期】 ほぼ週刊

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