「やっていい事と悪い事」や「正義と悪」の区別は、小学校の先生や親など身近な大人から教わるのが一般的と言えるかもしれません。今回の無料メルマガ『「二十代で身につけたい!」教育観と仕事術』では著者で現役教師の松尾英明さんが、数多くのヒーロー物の脚本を手掛けた作家のとある言葉を取り上げ、「一人歩きや暴走が起きやすい正義」の存在を指摘しています。
正義とは仮面だ
タイトルは、次の本からの引用。
『ことばの贈りもの』松岡享子 著/東京子ども図書館
「正義とは仮面だ」とは、ウルトラセブンや仮面ライダーの脚本家である市川森一さんの言葉である。我々、ウルトラマン、仮面ライダー世代の人間からすると、衝撃的な言葉である。
つまり、誰でも正義の仮面を被れるということ。
この本の中では、地下鉄サリン事件におけるオウム真理教信者の「正義」についての記述がある。正義の仮面さえ被れば、どんな卑劣なことも「正しいこと」としてしまえる恐ろしさである。原爆問題と同じ構造である。
ここからは私見。「正義」についての疑問は、以前から何度も書いてきた。例えば、次の記事である。
● 日本語の「正義」にあって英語の「justice」にはない、大切なもの
「正義」というのは、正しさである。正しさというのは、常に相対的である。物差しがあるからこそ、正しい(プラス)と誤り(マイナス)が規定される。誰かに与えられたものといえる。
「正義の仮面」を与えられたと勘違いする人間は、危険である。正義を他者に規定されるため、思考が停止する。「正しいと言われたから、やってもいい」ということになる(「ウルトラマン」で子どもの頃からずっと疑問だったのが、破壊されるビルの中の人々のことである。ハリウッド映画での様々なヒーローの、街中の逃走・暴走・追跡シーンも同様である。正義のためだからやっていいという類のものではない)。
これは子どもの「先生が言ってた」と同じ幼稚な思考パターンである。子どもは、子ども同士を自分の考えに従わせる場合、子どもにとって強い「正義」である先生や親を利用する。そこに正義が規定されているのだから、「錦の御旗」「絶対」として堂々と正義の剣を振りかざせる。
これは、大人社会でも同様である。相手より上の立場の意見である「正義」をちらつかせれば、弱い者は言うことをきく。自分の存在の大きさは関係なくなる。「あの偉い人が言ってた」となれば、それは急に正義になる。
教育現場では黒いカラスが白くなることなど、ざらにある(ゆとり教育などは、その最もわかりやすい例である)。
ネット上で、「叩く」行為も全てこれである。この場合の正義は「世論」という架空にして確かに「ある」存在から与えられている(それが故に完全に責任者不在なのが厄介である)。
思考停止してはいけない。絶対的な正しさは存在しない以上、常に考える必要がある(この一文自体も矛盾を含むのが、悩ましいところである)。正しさは、常に自分の心で追い求める。
正義とは、仮面。例えば学校の正義とは、文科省から与えられた仮面である。指導する際にも、このことは常に忘れずにいたい。
image by: Shutterstock.com